見出し画像

紫陽花と夕焼け

 思わず身構えるような強い雨が一晩中降っていた。こんなに激しく雨が降ると、晴れの感覚が一瞬思い出せなくなる。冬に夏の暑さが思い出せないのと同じだ。そのまま翌日の午後までぱらぱらと小雨が落ち、梅雨めいた風が吹いていた。夕方には路面が乾いたので、犬と近くの公園まで一緒に歩く。グラウンドの脇で懸命に匂いを嗅ぐ鼻先の、濡れた土に小さなプラスチックの包み紙が張り付いていた。木々の緑が何もない空に向かって伸びていた。‍ 

 2ヶ月半ぶりに撮影に出た。ロケ先には紫陽花が溢れるように咲いていた。梅雨の合間の日差しがじりじりと照りつける木陰で、淡い白から濃厚な紫まで無数の階調が埋めつくしていた。植物を眺めるのは久しぶりで見飽きなかった。紫陽花には毒があるという。夕方になると西の空には分厚い雲が立ち込め、クライアントの欲しがる絵は撮れなかった。

 犬の散歩から戻りしばらくして妻も職場から帰ってきた。外に出て玄関先で、2ヶ月ぶりにまた吸い始めた煙草をふかしながらふと見上げると、西の空が焼けていた。子供の頃から慣れ親しんだ路地に、伸びた電柱、左右の家々を繋ぐ無数の電線、その輪郭を残して空は地平から天空に向かって完璧なグラデーションを作っていた。「クライアントはこの空が欲しかったんだろうね」と一瞬不憫に感じたがすぐに忘れ、幼少の頃を思い出していた。毎日飽きることなく近くの公園の、象の滑り台に作った基地で遊んでいた。辺りが暗くなって子供たちの数も減り、ふと象の足下から家の方角を見ると母のシルエットが見えた。黙って静かに立っていた。俺が気づいたことに気づくと、何も言わず踵を返してゆっくりと歩き出した。忘れていた空腹がいつも急激にやってきた。自分の体の一部のようなうんざりするほど懐かしい風景。

 グラデーションが彩度を無くすまで空をぼんやりと眺めていると、街灯のあかりが灯りだした。ふと違和感を感じた。その理由が、外灯がLEDに取り替えられているからだと気づくまでに少し時間がかかった。発光している青白い光は小さいけれど眩しすぎた。見慣れた風景のなかでどこかよそよそしかくて、なぜか自分の居場所が少しぐらつくような心もとなさを感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?