火の鳥(1978)

市川崑監督作品。

漫画とアニメとは違い、アニメと映画とは違い、漫画と映画とは一層違う。

一つのメディアにおける表現の究極へと到達した作家の著す代物は、他メディアへの翻訳など、決して不可能なものであるはずだ。それは、その表現者が極めんと欲した一つのメディアでしか為せぬサムシングを、多分に含有したものであるに違いないのだから。

ゆえに、手塚治虫が関わった映像作品はぜんぶ失敗作だと、そう断じて問題はないはずであるが、しかし失敗作イコール何の実りもない作品であるわけがない。

本作には、愛ゆえにメディア間の距離を完全に見誤った作家が(市川崑はマンガの『火の鳥』が大好きだったそうだ)、表現の谷底へと転落してゆく様以上に、何かその断崖それ自体の開きの大きさが人々の背筋を芯から凍らせる、そんな何かが、魔の谷の底でとぐろを巻いている怪物の息遣いを首筋に幻覚したような、そんな何かが、確かに存在している。

これは断じて無価値な作品ではない。

マンガ演技なオーバーアクトで目をかっぴらいた若山富三郎が、弓の修行をさせる為にしょっぼい枯野に尾美トシノリを放り出す、そこに現れた狼の群れがギクシャクアニメな時点で大概だというのに、そのうちの2匹がピンク・レディーの『UFO』をBGM付きで踊ってみせたのを目撃してしまった瞬間(この衝撃を目撃と表現せずに何と言う)、私は全身にトリハダを立て、「ス、スゲェ……」とつぶやいてしまった。

少なくとも、長谷部安春版『あしたのジョー』のようなタイクツな実写化とは遥か隔たった地点に、挑発的にすら見えるたたずまいで本作は屹立しており、惨憺たる出来栄えの本編中唯一、「炎の中で転生する火の鳥」のシーンのみは実写にアニメが入り込む表現の成功例として、地の底にそこだけ芽生えた緑のように、軽んじられぬ光を放っている(まァ内田吐夢がたびたびやってる事じゃねーかという気もするが)。

それにしても本作とロバート・アルトマン版『ポパイ』の違いを思うと、まったく不可思議なものがある。才能の差、という一言では片付けたくないものである。

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