蜘蛛の瞳(1998)

黒沢清監督作品。

復讐シリーズの最終作に相応しい、すべてを終えてしまった男の辿る道を描いたブラックコメディ……と思わせておいての、実はなーんも終わっていなかったイコール始まってもいなかったお話デシタという壮絶なちゃぶ台返しムービー。

菅田俊演じる謎の組織のトップが言う。

「虚無は不幸じゃない。新しい何かが始まる」

なるほどそういう映画なのか!と飛びつきたくなるこの台詞が、実は完全にフェイクだといういじわるキヨシ。お前、人間らしい心はないのか?

北野武、特に『ソナチネ』リスペクトなのはよく伝わってくるのだが、コメディとしての咀嚼力が高すぎるゆえ、なんか半周回ってディスリスペクトみたいになっててウケる。一方、本作で最も笑えるキュルキュル車をバックさせて戻ってくる大杉漣は、『悪魔のいけにえ2』に違いない。

しかし、この底が抜けたがゆえにどこか明るい、果てには救済が待っているのじゃないかと思えるような虚無は、実はぜーんぶ勘違いだったとひっくり返されてしまうのだ!

所属する組織も、帰る家も、娘の幽霊も、復讐完了者としてのアイデンティティも、何もかも剥奪されてしまった哀川翔が、ボーゼンとすら呼べないような無表情でたたずむラストカット。

虚無をたゆたっていたはずの男が、自分は墜落しながら虚無を夢見ていただけだったという真実を知り、この墜落はいつまで続くんだと確認する為に地面へ目を向ける寸前に終わってしまう。

ここには虚無すら存在しない。虚無すら抹消して描かれる圧倒的空白を、我々は何と呼ぶべきなのだろう?

足し算じゃなく引き算で終わる映画という事で、アントニオーニの『欲望』を思い出したりもしました。

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