2)「幌馬車」

 丁度いま通る場所は時計やの店の前、昼間は軒したにかけられてゐる雲雀が都会の大気にややふすぼつてきた声で人流れに向いてしきりに囀つてゐたのです。                                                                               その退屈さうにまぶたを閉ぢてゐる姿――可愛い眠りの一点ともいふやうなありさまが疲れた心に浮ばれてくるのです。なだめてやりたいやうな なだめられたいやうな心です。私の哀れつぽい影ぼしはあてもなく黒い喪服のやうに流れて行きます。しつとりと濡れてゐるリボンなしの浪漫的帽子[ロマンチツクシヤツポ]の底には金魚の奔流のやうな夜の景色が流れてゐます。公孫樹の並樹は異国の斥候兵の足どりで しづしづと流れてゐます。

  悲しい眼鏡が曇る。
  夜雨は斜めに虹を絵く。

 まばらな夜ふけ電車の曲りぐはひの ぎいい といふ響きに私の小い魂はおどかされたばかりにはばたくのです。 帰りたい。 あつたかい爐[いろり]のそばに帰りたい。 好きな馬太伝五章を読みながら南京豆でも食べてゐたいと言ふのです。でも私は帰られるでせうか?。           辻角に突き立つてゐるビルディングの塔では高慢なXⅡ時がいかめしく避雷針の方に片指をさし上げてゐます。 今に私のくびがからりと落されさうなものです。松葉のやうな格好をして歩く私を高い所から見下してゐるのは面白いことでせう。 放心してしようべんでもしたくなりました。 ヘルメツトの夜警巡査がフイールムのやうにやつてくるでせう。

 辻角の煉瓦の壁はしめつてゐる。淋しい都会の頬ぺたがしめつてゐる。 こころはしきりに恋の落書をしてゐます。  一人しよんぼり涙ぐんでゐるのはいつもの赤い豆電灯の眼なのです。  私達のその前夜はこんなに物憂い。こんなにも淋しい。 ではこのへんで そなたをおとなしく待つてゐませうか?

 道ばたがひどくぬかるんでゐるので蛇の眼のやうなものが ぎよろ ぎよろ ひかつてゐます。 靴があんまり大いなので歩きながら眠くなります。 泥つちにくつついてしまひさうです。 しみじみそなたのまるい肩が恋しい。  そこに頭をすゑさへすれば何時も遠い暖い海鳴りが聴かれたものを――

  ああ どう待つてもこられぬ人を!

 待つてもこられぬ人のゆゑつかれた心は幌馬車を呼ぶ。 口笛のやうに吹いてくる幌馬車を呼ぶ。 銀製の悲哀がのせられるビロード敷きの幌馬車。丁度そなたのやうな幌馬車。ほろ ほろろ 幌馬車を待つ。
(「幌馬車」原文日本語、『近代風景』二巻四号、一九二七年四月号。『朝鮮之光』一九二七年六月号にもほぼ同内容の朝鮮語作品が掲載されており、末尾に一九二五・十一・京都と記されています)(二、五連目最初一字空き)

 「幌馬車」は近代文明批判をいっそう鮮明に打ち出した、驚くべき作品です。都会にうごめくさまざまな近代的システムに遭遇してうろたえる者の苦悩を描いているという点で、そして口語体の文をのびやかに駆使して詩人の感情をうまく伝える散文詩になっているという点で「幌馬車」は朝鮮近代詩史において際立っています。「一九二五・十一・京都」という付記から分かるように芝溶は朝鮮半島で暮らす人々よりも一足先に、近代化された都市京都において、それまで知らなかった都会人の情緒を否応なしに味わうことになったのです。
 「幌馬車」は芝溶が同志社大学に留学して二年ちょっと過ぎた頃の作品です。近代的都市の風景はどこも似通っていますが、この詩は京都の中心街で着想されたものでしょう。話者は街を散策します。夜は深まり巷には雨が降っているか、あるいは雨が上がった直後です。帽子が濡れているところからすると、話者は傘を持たずに家を出たようです。
 話者が曲がろうとしている角にある店が時計屋であるのは、けして偶然ではありません。時間に対する恐怖はこの詩のあちらこちらに顔をのぞかせています。ビルディングの塔に据え付けられた時計(「突き立つてゐるビルディングの塔では高慢なXⅡ時がいかめしく避雷針の方に片指をさし上げてゐます。」)に対して話者は、「今に私のくびがからりと落されさうな」脅威を感じています。時計で測定され得る均質の時間という概念こそが、人間を抑圧し統制する近代的システムの一つだからです。現在我々は誰であれ時計を見ながら生活しています。一日は二十四時間に、一時間は六十分に、一分は六十秒に分けられ、九時までに職場につくために混雑した電車に乗らなければならず、空腹であろうがなかろうが十二時から一時までが昼食時間として与えられます。決められた勤務時間が終わるまで家に帰ることはできず、つらい日課が終われば、また翌朝遅刻しないために寝床に入って睡眠を取らなければなりません。
 こうした時間感覚は太古の昔から存在していたのではなく、近代化とともに始まったものです。西洋近代詩の始祖ボードレールはいち早く時計に対する恐怖を「大時計よ!  いまわしく恐ろしい非情の神」と表現しました(「大時計」、粟津則雄訳『ボードレール詩集』、みすず書房、一九六六、八六頁)。 それから七十数年ののち、芝溶は「兄さんが出てった部屋に/時計の音がぞわぞわ怖い」(「恐ろしい時計」、一九三二)、「真夜中の掛け時計は不吉な啄木鳥[きつつき]!/俺の脳髄をミシンの針みたいにつつく//起きて ぶつぶつつぶやく〈時間〉をひねり殺す/残忍な手にからみつくかぼそい首!」(「時計を殺す」、一九三三)と、近代的な時間に対する反感を露にします。
 それで時計屋の前に吊された鳥かごの中の雲雀ですら、都会の風にさらされれば老いて声がくぐもってしまいます。話者はその雲雀に自らの姿を認め、雲雀と慰め合いたい気持になるのです。夜遅く走る電車(路面電車かもしれないし、大阪-京都間をつなぐ京阪電車かもしれません)の音に驚いて「私の小い魂はおどかされたばかりにはばたく」ところを見ると、話者が自分を小鳥と同一視していることが分かります。時刻表の時間通りに走る電車の金属的な騒音は、時計と同じく話者を威圧します。
 近代以前にも法はありましたが、近代の制度はいっそう効率的に人間を監視し、統制するシステムをつくりました。「幌馬車」の話者はいつも、誰かに監視されているような不安を感じています。街路樹の銀杏がまるで自分の様子を偵察する「異国の斥候兵」のように恐ろしく思われ、時計塔のあるレンガの建物からはだれかが自分の貧弱な姿を見下ろしているように感じます。「放心してしようべんでもしたくなりました。」は得体の知れぬ監視体制に対して話者がささやかな反発心を表明したものです。便所以外の所での小用は、日本では一八七二(明治五)年に、不法行為であると規定されました。しかし、どこからか自分を監視しているヘルメットの夜警巡査が怖くて、結局そうすることができません。
 このような巡査は実際に芝溶が日常的に見かける人物でした。やはり一九二〇年代に京都に留学していた李敭河は当時、第三高等学校の学生達の間で有名であった「田中巡査」のことを記しています。「彼は三高生であれば、つまらないことでも言いがかりをつけて大声で叱りつけることを、いわば一種の道楽にしていた。『お前達はなんで一日中うろうろしてるんだ?』とか、『田舎の親のことを思って、ちっとは勉強したらどうなんだ?』」(「京都紀行」、『李敭河未収録随筆選』、 中央日報・東洋放送、 一九七八)
上からだけではありません。地面にも不吉なヘビの目玉のようなものがぎょろぎょろ光って自分を監視していると感じるほど、話者の気持はくたびれています。「金魚の奔流」と形容される華やかな街の只中で、話者は自分のみすぼらしさを感じています。
 作品の冒頭から、「流れる」という言葉が何度も現れています。「人流れ」「私の哀れつぽい影ぼしはあてもなく黒い喪服のやうに流れて行きます」「しつとりと濡れてゐるリボンなしの浪漫的帽子の底には金魚の奔流のやうな夜の景色が流れてゐます」「公孫樹の並樹は異国の斥候兵の足どりで しづしづと流れてゐます」。近代人は自らの意志に関わりなく、眼に見えぬ巨大な力に押されて流れているようです。かつてボードレールは、個人が抗い得ぬその力を不気味な怪物として形象化しました。「彼らはそれぞれ、背中に、巨大な噴火獣[シメール]を一匹背負っていた。(中略)私は、その人々のなかのひとりに問いかけた。そうやっていったいどこへ行くのかとたずねてみた。すると彼は、こう答えた。自分にも、ほかの者にも、それはまったくわからない、でも確かにどこかにむかって進んでいるのだ、皆、歩きたいという、どうしようもない欲求につき動かされているのだから。」(「人はみな幻想[シメール]を身に負う」、粟津則雄訳『ボードレール詩集』、みすず書房、一九六六、一六六~一六七)。都会の人々は抗いようのない時代の強烈な流れ、すなわち近代化の流れにしたがって流れているのです。「幌馬車」の話者が、靴が大きすぎて歩きにくいと感じるのはまだ近代のシステム(皮靴は近代的な服装のひとつです)に慣れておらず、不便を感じていることを示しています。それでも彼は、流れて行かねばなりません。彼の影法師は既に、喪服のように力なく流れているではありませんか。
 ぎごちない話者の心は、当然のことながら近代以前の状態を懐かしみます。「帰りたい。 あつたかい爐のそばに帰りたい。 好きな馬太伝五章を読みながら南京豆でも食べてゐたいと言ふのです」。しかし汽車と連絡船で帰れる彼の故郷はすでに、彼が帰りたい故郷ではなくなっています。「故郷に 故郷に帰っても/恋しかった故郷じゃないなんて」(「故郷」、一九三二、拙訳)。話者が帰りたい故郷の風景は植民地化とともに、さらに近代化とともにこの世から消えてしまっており、話者もそのことをよく知っています。「でも私は帰られるでせうか?」。
 話者は故郷がすでに自分の幼いときの故郷でないことを知っています。だから「こころはしきりに恋の落書を」するばかりです。「赤い豆電灯」はもちろん紅灯の巷を連想させる言葉ですが、その次の「私達のその前夜はこんなに物憂い。こんなにも淋しい。」という言葉の内包するものを聞き逃してはなりません。「その前夜」はツルゲーネフの有名な小説のタイトルで、革命が起る直前を意味しています。「幌馬車」の話者は、歴史の流れを逆に押し戻すことができないことを知っているから悲しいのです。たとい日本の植民地侵略が終わったとしても、ひとたび失われた故郷の姿は取り戻せないでしょう。近代を近代以前に戻す革命は、あり得ないからです。
 話者は「まるい肩」をした「そなた」を恋しがりますが、この二人称はすぐに「待つてもこられぬ人」という三人称に変わってしまいます。この日本語「幌馬車」でも「です、ます」という敬体と常体の語尾が混在していますが、朝鮮語「幌馬車」の語尾はさらに多様で、目上に使う言葉と目下に使う言葉、さらに文語体の語尾も混じって、その混乱が話者の心理状態を表現しているようです。誰に向かって語りかけているのか、話者自身が分からないのです。
 「待つてもこられぬ人」とは、いわば近代化、植民地化で失われたものを取り戻してくる存在を指していると思えますが、それは近代の冷たさ、四角い形態、とがった形態に対し、温かさ、丸みというイメージとして把握されています。そして話者は、それが来ないことを知っています。
 こられぬ人をあきらめた話者は幌馬車を呼ぶのですが、この幌馬車は、アメリカの西部劇のそれではなく、トルストイやツルゲーネフの小説に出てくるような、一九世紀ロシアの大地を走る幌馬車のイメージでしょう。「とまれ幌馬車、やすめよ黒馬[あお]よ、/明日[あす]の旅路がないぢやなし」とは、一九一七年に芸術座が上演したトルストイ『生ける屍』の劇中歌として白秋が作詞した「さすらいの唄」の一部です。(藤田圭雄編、『白秋愛唱歌集』、 岩波書店、 一九九五、九二頁)。それは牧歌的で平和なものの象徴です。ビロードを敷きつめた暖かい幌馬車が矢のように飛んできて、自分をのどかな風景の中に連れて行ってくれることを話者は渇望しています。しかしもちろん幌馬車は、来ません。

 「幌馬車」の成功には散文詩という形式も大きく作用しているでしょう。散文詩とは、詩の形式から来る美を犠牲にして、詩人が自由に思想や感情を伝えるための形式であるからです。そして芝溶が初期に身につけた散文詩の技法は、十数年後に『白鹿潭』などの一連の作品を生み出します。
 以上で検討したように、芝溶は近代に遭遇した都会人の情緒と近代文明に対する批判を、おそらく朝鮮近代詩人のうちで初めて表現したと言ってよいでしょう。そう考えれば日本語の「悲しい印象画」、「幌馬車」、「カフェ・フランス」などが掲載された雑誌の名前が『近代風景』であったのは、実に象徴的であると言わざるを得ません。まぎれもなく芝溶は、近代の風景の中に登場し、近代の風景を朝鮮語でうたった最初の詩人だったのです。