六、朝鮮近代詩に初めて登場した都会   1) 「悲しい印象画」

 朝鮮モダニズム詩を語るとき、よく一九三○年代の作品が挙げられます。喫茶店、カフェ、百貨店、映画館などの近代的システムが京城に出現しただけでなく、日本などから都会の生活様式が入ってきた結果、朝鮮でもかなり近代的都市生活が可能になったのが三○年代だったのです。しかし都市生活を詩の素材として消化するということは三○年代に登場した詩人達にも、そう簡単なことではありませんでした。金起林や呉章煥[オ・ジャンファン](詩人、一九一六~一九五一)のようにモダニズムに関心を傾けた人々も、都会を描いた作品ではあまり成功できず、多くの場合、近代に対する批判や風刺が皮相なものにとどまっています。ただひとり、李箱[イ・サン](詩人、一九一○~三七)が特異な方法で都会人の苦悩を告白したぐらいで、五○年代の『後半紀』同人達のモダニズムに至っては三○年代モダニズムよりはるかに後退してしまい、近代文明に対する盲目的な肯定を表明する軽薄なものに過ぎませんでした。
 詩だけではなく、解放前の朝鮮文学は農村の情緒を表現することには比較的長けていましたが、都会の情緒を表現することは不得手であったようです。例えばプロレタリア小説や戯曲にも農民の情緒は重要なテーマとしてしばしば登場しますが、都市プロレタリアートの心情を表現した作品はあまりなかったし、出来の良いものがあまりありません。そしてその事情は日本も同様です。
 とはいえ、京城が近代化される以前から、留学生達は異郷の地で近代的な都会に遭遇していました。一九二三年から一九二九年まで京都に留学していた芝溶もその一人です。朝鮮近代詩史において都会を背景にした作品が二○年代には少なく、芝溶は二○年代半ばに都会の風景を詩に表現し、都市に住む者の心情を描いた点で先駆者とも言える存在です。都市が背景になっていると見られる作品として「カフェ・フランス」(一九二六)、「幌馬車」(制作:一九二五、 発表:一九二七)、 「悲しい印象画」(一九二六。原題では〈印象画〉の部分が〈印像画〉と表記されている)、 日本語詩「橋の上」(一九二七)などがあり、都会で故郷を懐かしむ都会人の情緒を描いたと思われる作品に「郷愁」(制作:一九二三年三月)、「みなし子の夢」(一九二七)などがあります。(「郷愁」を書いたとき、芝溶がどこにいたかは定かでありません。一九二三年三月なら徽文高普を卒業する頃ですが、どういう訳か彼の入学は五月三日と記録されており、この詩を書いたときにはまだ京城にいた可能性もあります)。 「カフェ・フランス」、「悲しい印象画」などの初出誌は京都の朝鮮人留学生達の雑誌『学潮』一九二六年六月号であると一般には思われていますが、実際につくられたのは芝溶が京都に行って間もない一九二三、四年頃であったと思われます。これらの作品が芝溶の高普時代に始まった『揺籃』誌に発表されたという証言を、当時の仲間である朴八陽が記しています。

「郷愁」と題した作をはじめとして、このあいだ出版された鄭芝溶詩集の中でも「鴨川」、「カフェ・フランス」、 「悲しい印象画」、「悲しい汽車」、「風浪夢」等は 全て『揺籃』に掲載された作品であり、特にこの詩集第三編の童詩または民謠風の諸作の半数以上はその当時の作であるから、この文人の少年時代がどれほど文学的に早熟であったのかが分かる(…)。
(朴八陽、 「揺籃時代の追憶」、『中央』一九三六年七月号)

 「鴨川」の制作年度が「一九二三・七、京都の鴨川で」、「風浪夢 一」のそれは「一九二三・三 麻浦下流玄石里」となっているのに、三年後の『学潮』一九二七年六月号と『朝鮮之光』一九二七年七月号にそれぞれ発表されていることから見ても、「カフェ・フランス」、「悲しい印象画」も一九二三、四年頃にひとまず書かれていたのではないかと思われます。「鴨川」、「カフェ・フランス」、「悲しい印象画」 などは日本留学時代に書かれたと思われますが、『揺籃』誌が彼等の高普卒業以後にもしばらく継続していたという事実に照らして見れば合点が行くものです。

だがそれぞれ東西に別れた後も、我々は雑誌を投げ出しはしなかった。謄写版をきちょうめんに切るだけの時間と気持の余裕がなくなったため、書いた原稿をそのまま綴じて本にし、文字通りの原稿回覧をした。京城から京都へ、京都から東京へとわれわれの原稿の束は休む間もなくめぐった。(前掲文)

 「カフェ・フランス」、「幌馬車」、「悲しい印象画」は朝鮮近代詩史において、おそらく初めて近代的都市が前景化した詩でしょう。芝溶自身の詩作活動の起点であると同時に、朝鮮近代詩の起点でもあります。この三篇は近代都市のさまざまなシステムに遭遇した話者の疎外感をなまなましく伝えることによって近代文明を批判しているという点で、高い評価を与えられる作品です。

西瓜の匂いする
初夏の夕暮れ………

遠い海岸
街路樹に沿って並んだ
電灯  電灯 
泳ぎ出すみたいに ちらちら光る

沈鬱に響きわたる
築港の汽笛……汽笛……
異国情調にはためく
税関の旗 旗

コンクリートの歩道をすっすっと動く
白い洋装の点景!

それは流れゆく失心した風景……
意味もなく おらんじゅの皮を噛む悲しみ……

ああ、愛施利[エシリ]・黄[ファン]!
君は上海に行ってしまうのか………
(「悲しい印象画」全文、拙訳)
(これは韓国語作品を翻訳したものです。日本語で書かれて『近代風景』に発表された作品<本書巻末に収録>では「愛施利」が「愛利施」になっているなど、多少の異同があります)

 この詩は印象画(印象画)という言葉通り、絵画性の強い作品です。しかし絵画性だけが突出している訳ではありません「電灯 電灯」、 「旗 旗」などは視覚的な効果と共に言葉のリズムすなわち音楽的な効果をねらったものですし、西瓜の匂いやおらんじゅの皮は嗅覚・味覚イメージです。この印象画は静止しているようでいて、西瓜の匂い、海の匂い、オレンジの匂いが漂い、遠くから汽笛の音とはためく旗の音、「すっすっ」と軽快に歩む洋装の人々の足音が聞こえてくるのです。
 『近代風景』に発表された日本語詩とは別に、学生同士の雑誌にもこれとほぼ同じ内容の詩が発表されており、そこでは「仁川港の或る追憶」というタイトルになっていることから、この詩は大学の夏休みに帰郷していた芝溶が仁川[イン チョン]港で友人を見送った時の光景を書いたものと思われます。さて、話者が眺めているのが点景であり「風景」であるということは、話者がその場所に距離を感じていることを表わしています。エキゾチックかつ近代的な洗練された風景の中に話者は入り込めないで、距離を置いて眺めるばかりなのです。
 この詩は一見、軽い感傷を表わしただけのように見えますが、よく読んでみれば話者が西洋化・近代化の象徴のような港の風景に対して意外に強い疎外感を持って批判のまなざしを向けていることがわかります。それを端的に表わす一節が、「流れゆく失心した風景」です。
 この部分は日本語の「悲しい印像画」(一九二七年三月)では「失心」という単語は使わず、「そは流るる失望の風景にして」となっています。ここで「流るる」という言葉は歩行者の動きを描写したものですが、風景(=人々の歩く姿)が流れるというのは、人々がある流れにしたがって何も考えずに動いていることを意味しています。そのため洗練された洋装の人々は、実は自分自身の心を失って(=失心)しているように見えます。「失心」(=失神)の辞書的意味は脳の循環障害により一時的に意識を失うということですが、ひょっとすると日本や朝鮮の近代化とは、西洋文化を受容しながらその副作用で循環障害を起こし、自分を見失うプロセスであったのかもしれません。そう考えれば、この一節は「カフェ・フランス」の「移植された棕櫚の木」と同様の意味を内包していると言えるでしょう。話者は見慣れないこの風景を前にしておらんじゅの皮を噛み、その強烈な香りの刺激によって、何とか正気を保っています。なぜミカンではなくおらんじゅでなければならないのか。それはこの単語がフランスに代表される西洋文化の象徴として現れているからです。話者はおらんじゅの果肉を食べるのではなく、表層の皮を噛むのがやっとです。
 この作品においてもっとも強い象徴性を帯びている詩語は「愛施利・黄」と上海です(日本語詩 「悲しい印像画」では、この名は「愛利施・黄[エリシ・フワン]」になっています)。「愛施利・黄」という名前は何を意味しているのでしょう。黄は朝鮮人の名字でしょうし、「愛施利」はその人が女性であり、カトリック信者であることを暗示しています。また漢字で表記された洗礼名は彼女が漢字の読める人間であるということを匂わせていますが、漢字が読めるなら当時の朝鮮人女性としてはかなり高い教育を受けた人です。もしこの港が神戸や横浜なら、彼女はおそらく日本に留学してきた若い女性でしょう。裕福な家の娘なのか、あるいは教会の後援で留学資金を得たのか、どちらにしろ新知識を学ぼうという意欲に燃えた新しい女のようです。芝溶の留学時代には京都で学ぶカトリックの朝鮮人学生達の会合がよく開かれたので、彼は「愛施利・黄のような女性を知っていました。たとえば「素描・1」に登場するミスRのような人を。
 「愛施利・黄」は上海に旅立ちます。若い女性の身で見知らぬ外国に行くというのは相当強い意志が必要でしょう。しかも上海はヨーロッパの各国とアメリカの租界を中心に発展した国際都市であり、洗練されたものと頽廃的なものがすべて集中する、人種と民族のるつぼのような所でした。この作品が何年度に書かれたかは定かではありませんが、関東大震災(一九二三年九月一日)以後、東京に留学していた朝鮮人留学生達が中国の大学に移るケースが珍しくなかったそうです。愛施利・黄も上海の大学に行こうとしているのかも知れません。
 ともかく若い女性が果敢に上海に行こうとしているのに、話者は何もできないままおらんじゅの皮を噛み締め、無力感と自責の念にとらわれながらそれを眺めるばかりです。それで彼の見る風景は悲しい印象画なのです。こう読んでみれば、この作品は「カフェ・フランス」の話者の「大理石のテーブルに触れる頬が悲しい!」という心理に類似した気持ちを描いているということがわかります。
この詩全体を、愛する女性を見送りに来た男の失恋を描いた詩であると見ることも可能でしょう。そう考えるなら失心した風景は話者の心情の投影であり、好きな女性が行ってしまうから悲しいという内容になります。しかし仮にそう解釈したとしても、近代的港湾都市の風景について話者が感じる疎外や、上海のイメージが消えることはありません。むしろ個人的な失恋の悲しみと重なることで、時代の悲しみの意味が、いっそう強まるのではないでしょうか。