第一部 高普[コボ]卒業まで (一九〇三~一九二二)



 鄭芝溶は一九〇三年生まれで、これは明治三六年にあたります。(芝溶の生年は一九〇二年という説と一九〇三年という説があります。この本では、芝溶直筆の同志社教会入会志願書を根拠に、一九〇三年生まれとする立場を取っています。)日本では草野心平、サトウハチロー、小野十三郎、林芙美子、小林多喜二、中野好夫、森茉莉といった詩人、作家たちがこの年に生まれています。映画監督の小津安二郎も同年です。後に北園克衛と名乗る橋本健吉や春山行夫、小林秀雄は前年の一九〇二年生まれで、そのまた前年の一九○一年には村野四郎、高橋新吉が生まれており、これは昭和天皇と同年です。もう少し年長の詩人では安西冬衛が一八九八年(明治三一)、北川冬彦は一九○○(明治三三)、金子光晴はさらに上で一八九五年(明治二八)生まれです。芝溶が師と仰いだ北原白秋は一八八五年(明治一八)生まれ、白秋の弟子のうち三羽烏とうたわれた萩原朔太郎は一八八六年(明治一九)、大手拓次は一八八七年(明治二○)、室生犀星は一八八九年(明治二二)の生まれで(弟子といってもこの三人の年齢は、白秋とほとんど違いません)、芝溶よりも十数歳の年長です。朝鮮は一八九七年より国号を大韓帝国と改めており、国王高宗はプロイセン皇帝の軍服をまねた服をあつらえ、西洋風の髪型で「皇帝」に即位していました。朝鮮が日本に併合されるのは、もう少し先の一九一○年です。
 鄭芝溶は大韓帝国の内陸部に位置する忠清北道[チュンチョンプクト]沃川郡[オクチョングン]沃川面[オクチョンミョン]下桂里[ハゲリ]で父・鄭泰国[チョン・テグク]と母・鄭美河[チョン・ミハ]の長男として誕生しました。現在の沃川郡について言えば、面積五三七平方キロメートルのうち六五パーセントが林野、二○パーセントが耕地で、人口は約五万六千人(二○○五年十二月末現在)だそうですが、沃川には大きな山や川もなく、特にこれといった名物もありません。近年は芝溶祭という行事を毎年開いており、この詩人の郷里であるという事実が、まずは最大のセールスポイントであると言えましょう。その点では白秋の故郷・柳川に似ています。
 芝溶の両親は最初、沃川の水北里[スブクリ]という所に住んでいましたが、漢方薬店を開くために下桂里に引っ越してきました。水北里は朝鮮時代中期の詩人であり文臣であった鄭澈[チョン・チョル](号は松江<ソンガン>、一五三六~九三)の末裔の鄭さん達が住むところで、芝溶はこの松江の二十三代目の子孫に当たります。芝溶の長男求寛[ググァン]氏がご健在だった頃、「ご先祖は何をされてたんでしょうか」と聞くと、たぶん農業だっただろうと答えられました。しかし芝溶の父・泰国は若いころ満州やロシアなどを放浪し、帰ってきた時には漢方医学とカトリックの教えを身につけていました。
 やがて泰国は、腕のいい漢方医として知られるようになります。といっても昔のことですから、泰国は問診、脈診などをして薬を調合する漢方医兼薬剤師であり、また自分の作った薬を売る商人でもあったのでしょう。芝溶の普通学校(植民地時代に設置されていた初等教育機関。小学校のようなものですが、当初は四年制でした)の学籍簿には、父親の職業が「商業」になっています。西洋医学が普及する以前、漢学に通じた人の家庭には漢方の薬材が常備されていて、病人が出れば家伝の処方で調合し、煎じて飲ませるのは普通のことでした。芝溶より二つ年上で高普の先輩である洪思容[ホン・サヨン](詩人、一九○○~一九四七)は、『東医宝鑑』などの医学書を独学しただけですが、家計が傾いてからは漢方の処方箋を書くことで生計を立てていた時期があるといいます。当時の医療はそういうものが主流だったのでしょう。泰国のつくった膏薬は評判が高く、よく売れたので、一家の暮らしはわりに裕福でした。
 この時期の幸福な記憶と関係しているのかどうかは分かりませんが、芝溶は自分の長男が幼かった頃、お前は将来医者になれと言い聞かせていました。しかしある日、医師である友人に連れられて某病院の解剖用死体置き場に入り、医者達が死体を前に平然としている光景に仰天して、うちの子にあんな事はさせられない、と考えを変えたそうです。芝溶は、「文学では飯が食えない」と言って自分の子供達には文学に関心を持つことを一切禁止し、家族に詩の話をすることはありませんでした。結局、芝溶は「手堅い職についてお母さんに孝行しなさい」と言いつつ、長男を商業学校に進学させます。家長としての自分が経済的に苦労をかけている妻に対して、申し訳ないという思いが常にあったのでしょう。
 次の文は、芝溶が子供時代の思い出を書いた数少ないエッセイのひとつです。

 松でつくったコマはうまく回らないから、樺の木を削ってつくったコマを手に入れるのが念願だった。樺の木の棒を買ってもらうために、母に何日もねだらなければならなかった。樺の棒を持って大工の家に行けば、今度は恨めしげな声を聞かなければならない。
「ああ! 道具がいたんぢまうよ」
 父から大工に交渉してもらいたいのだが、父に頼むのは、郡主様に願いを立てるのと同じくらい怖かった。
 そうこうしてやっと樺のコマができ、凍てついたセリ畑の氷の上でぐるぐる回したときほど、楽しくうれしかった時代は、その後、訪れなかった。
 タコ上げはお金がかかるから、やったことがない。
 コマは、おもちゃというよりも一種の運動器具である。
 昔の大人達は運動というものを、くだらないことのように思っていた。
 今の子供達もおもちゃを持たずに大人になってゆく。
 しかし、以前におもちゃなしで育った大人達は、雑誌を作って恨みを晴らしている。
 子供のみなさんは、それでも私達よりは幸福なのです。
 大人も子供も、『こどもの国』を、楽しく楽しく読みましょう。
(「おもちゃを持たずに育った大人」、全文)

 鄭家が不幸に見舞われる前の情景なのでしょう。この時、芝溶には、コマ用の材木を買ってくれとねだれる母親がいたし、厳格でとても怖かったにせよ父は息子のために大工の所に行き、硬い樺の木でコマを作ってくれと大工さんに頼んでくれたのです。そんな楽しい時期が「その後、訪れなかった」というのは、この後、芝溶の生活が一変することを暗示しています。
ある年、洪水によって家の金庫(といっても単なる箱)が流されてしまい、一家はたちまち暮らしに困窮するようになったのです。家屋が流されるほどの大水はこの地方でたびたび起っているため、芝溶の家がいつ被害にあったのかは特定できません。父はこの事件をきっかけに天を恨んで信仰を捨て酒に溺れ、ついには家に別の女を同居させるようになり、芝溶の生母は家を出てしまいました。おそらく芝溶が普通学校に入学する前後か、あるいはそれ以前でしょう。生来頭の良い芝溶が、普通学校時代にそれほど優秀な成績を残していないのは、家庭環境が深く関わっていると思われます(芝溶の成績は、第一学年が四十三人中六番、第二学年が三十四人中十五番、第三学年が二十七人中七番、第四学年が十六人中八番でした)。 芝溶が若い頃の思い出を書いたエッセイはあまり多くありませんが、その中でいちばん楽しそうなのは同志社留学時代のエピソードで、高普時代の思い出を書いたものもあまり残っておらず、それより以前のことを書いたものは、ほとんど見つかりません。振り返りたくない子供時代だったのです。
 ただ、高普二年の時(一九一九)に発表した「三人」という短い小説(伝えられる限りにおいて、この習作は彼が初めて発表した文学作品です)の主人公趙慶鎬[チョ・ギョンホ]は当時の芝溶自身をモデルにしており、当時の心境をうかがうことができます。「三人」の登場人物である崔[チェ]、趙、李[イ]という三人の少年はみな沃川出身で、京城にある高普に通っています。三人は一学期の最終日に崔の下宿で崔の成績が一番だったことを祝い、その夜はそこで泊まって翌朝、三人一緒に帰郷します。崔の実家は近所でも有名な金持ちですが、趙のうちは雨漏りのするボロ家で、母と妹が彼の帰りを待ちわびています。父は「浮浪者のような人で、数年前に女ができて別の家を構え、日々の暮らしがおもしろくて、本妻と子供を顧みない薄情な人」であり、ほとんど家には寄りつきません。母はやっとのことで息子を京城の高普に入れたものの、いまやこのボロ家すら追い立てられている有様で、趙は学業を放棄すべきかと思い悩む、という内容です。もちろん事実のままではないでしょう。芝溶の実母の子供は、芝溶しかいなかったはずですから。
 現実の芝溶は、新しく来た別の女性を「チャグンオモニ(小さいお母さん)」と呼ばなければならなくなりましたが、ひとつ嬉しかったのは、兄弟のいなかった芝溶に、腹違いの妹ができたことです。桂溶[ケヨン]という名の妹を、芝溶はとても可愛がりました。実母がいなくなってからは、家の中で唯一気の許せる相手だったのでしょう。彼女は「伝説の海に舞いおどる夜の波のような/黒いお下げをなびかせる幼い妹」(「郷愁」)として芝溶の詩に登場します。この妹は後に、江華島の小学校に教師として赴任しました。

桐の花に燃え立つこの地の初夏が恋しいのか
幼い旅人の夢は青い鳥になって
木陰にいても 机に頬杖をついていても
耳元でお前のことばかりささやきかける

久々の手紙に胸はときめき
愛らしい文字のひとつひとつに黄海[ファンヘ]が波立つ

――俺は鴎[かもめ]のような小船を走らせている――

快活な五月のネクタイがふと順風になれば
空に迫る青い波にぽっかり浮かぶ
孤島のロマンでも探しに行こうか

日本語とアラビア数字を教えに行った
小さなペスタロッチ ウグイスみたいな先生よ。
日ごと夜ごと島は不気味な風波にさらされ
彼方から押し寄せるオルガンの音――
(「五月の手紙」一九二七、拙訳)

 芝溶は一九一○年(明治四三)、韓国が日本に併合された年に普通学校に入学しています。彼の通った沃川公立普通学校の学籍簿には、芝溶が入学以前に私塾教育を受けたと記されていますが、この私塾とは書堂[ソダン]、すなわち元来は漢学を教える目的でつくられた、寺子屋のような学校です。二○世紀初頭には朝鮮でも民間の教育熱が高まったため、公立普通学校に入学できない子供を書堂に通わせるケースが多くなり、書堂でも徐々に新しい学問の手ほどきをするようになりました。普通学校の数が増えて希望者がみな入学できるようになると、書堂は入学前に予備教育を受けるための塾のようなものになります。求寛氏によると芝溶は幼くして書をよくし、文章が上手だったため、近隣では神童の誉れが高かったそうです。
 一九一三年、数えで十一のときに芝溶は宋在淑[ソン・ジェスク]という一つ年上の女の子と結婚しています。昔の韓国には早婚の風習があり、幼い息子に嫁(たいていは新郎より年上)をもらって家内の労働力として活用するということもよくあったのですが、芝溶の場合は形だけのことで、このとき同居していたわけではありません。とはいえ、長じて別の人と恋愛結婚する可能性は封じられてしまいました。芝溶の年代の詩人や小説家の例を見ても、この早婚制度はさまざまな不幸の元になっています。十代で結婚させられ、妻をおいて東京留学に出ている間に「新式女性[シンシクヨソン]」、すなわち女学校出の断髪のモダンガールと恋愛してしまうという事件が後を絶ちませんでした。結婚させられたときの幼い芝溶の気持ちは知りようもありませんが、おそらく運命を粛々と受けとめたものと思われます。
 芝溶夫人は正式な学校教育を受けたことのない古いタイプの女性でした。求寬氏によると、お母さん、すなわち芝溶夫人が夫に対して本気で腹を立てる光景を、ただ一度だけ目にしたことがあると言います。それは駅でお金を落して途方にくれている女の人を見かけた芝溶が、貰ったばかりの月給を発作的に封筒ごとあげてしまった時のことです。ただでさえ家計が苦しいのに、ひと月分の給料なしでどうやって子供達にご飯を食べさせるというのです、とその時ばかりはお母さんも怒ったそうです。しかし普段は口答えなど思いも及ばないことで、経済観念に乏しい夫に文句も言わず、よく仕えて、黙々と家庭を守りました。恋愛で結ばれた夫婦ではなかったにせよ、また留学時代の芝溶に憧れの女性がいたにせよ、彼は貞淑な妻に感謝していて、夫婦の間に大きな不和はありませんでした。「あなたはどこでどのように最期を迎えますか?」という女性誌のアンケート(「文人との愚問賢答」『女性』一九三七)に対して芝溶は、妻を私の手で埋葬してやってから死ぬ、と言っています。苦労をかけた妻に対する芝溶の思いやりがうかがわれます。芝溶にしても、自分の子供時代のような不幸を妻子に味わわせたくなかったのでしょう。彼は絶対的な権威を持つ家長でしたが、子供達をこよなく愛しました。
 一九一四年三月、数えで十三の年に芝溶は普通学校を卒業します。京城の徽文[フィムン]高等普通学校(高等普通学校に通うぐらいであれば当時の朝鮮においては、まず知識人の部類ですが、さらに勉強したければ、たいてい日本の大学に進学しました。徽文高普は芝溶の入学時には四年制で、卒業前には五年制になっています)に進学するのは一九一八年ですから四年のタイムラグがあります。その間芝溶は、妻の親戚で漢学に通じた人物が京城にいたため、その家に寄宿して漢学を学んでいたそうです。おそらく芝溶は漢学を学ぶかたわら、高等普通学校に進学するための勉強も独学でしていたでしょう。
 芝溶がすぐに進学しなかったのは経済的な理由であると言われているものの、当時は普通学校だけで学業を終わるのが一般的でしたし、新式の学問より伝統的な漢学を尊ぶような考え方を芝溶の父親が持っていたかも知れないので、これはちょっと断言できません。たとえば徽文高普の先輩である朴鍾和[パク・チョンファ](詩人・小説家・評論家、一九○一~八一)は裕福な家に生まれましたが、幼いころから学校には行かず伝統的な漢学の教育を受けていました。彼が兩班[ヤンバン]の象徴である髷[まげ]を切り落として徽文義塾(その時点ではまだ高普ではありませんでした)の入学試験に臨むことができたのは、「漢学はもう充分だから、これからは新しい学問を勉強したい」と言って必死に父親をかきくどいた末のことでした。(『月灘[ウォル タン]回顧録――歴史は流れても青山は語らない』、サムギョン出版社、 一九七九)
 高普での芝溶の成績は優秀でしたが、家庭の事情は好転せず学費が払えないので、芝溶はせっかく入った学校を退学し、銀行の給仕(雑用係の小僧)として就職してしまいました。それでも向学の志は捨てがたく、芝溶はある日、担任の教師を訪ねて勉強したいと涙ながらに訴えます。教師が校主と相談した結果、芝溶は校費生として再び学校に通えることになりました。教務室を掃除するかわりに学費を免除してもらうのです。だが、こうした家庭の暗さとは裏腹に、才気煥発でおしゃべりな芝溶は、いつでもどこでも人気者でした。高普在学中に芝溶は西洋や日本の近代文学に関心を抱くようになり、校内の雑誌に作品を発表したり、近隣の学校に通う文学青年と共に謄写版の雑誌『揺籃[ヨラム]』を始めたりしています。「あいつは文才がある」。先生も友人も、芝溶には一目置いていました。
 数えで十七歳の芝溶が高普に入学したのは一九一八(大正七)年ですから、彼が文学に目を開き始めたのは日本で大正浪漫花ざかりの時期です。京城でも南山[ナムサン]のふもとには日本人向けの古書店がたくさんあって日本で発行された日本語の書籍が簡単に入手できたし、幼少から漢字を習得し、普通学校で日本語を学んだ朝鮮の青年達が日本語の文学書を読みこなすのは、それほど難しいことではありませんでした。先輩の朴鍾和は、高普時代にこの古書店から買った本で、徳富蘆花、夏目漱石、高山樗牛、尾崎紅葉、岩野泡鳴、三木露風、佐藤春夫の作品を読み、ハイネ、ゲーテ、バイロン、ボードレール、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフなども日本語訳で読んだと記しています。
 また、雑誌『揺籃』で芝溶の仲間であった朴八陽[パク・パリャン](金麗水[キム・ヨス]、詩人・評論家、一九○五~六六)の「揺籃時代の思い出」という文章では、『揺籃』の仲間がよく話題にしていた作家として、トルストイ、タゴールとともに高山樗牛、徳富蘆花、夏目漱石、二葉亭四迷、石川啄木、賀川豊彦などを挙げています。要するに、この時代に朝鮮の文学青年達が熱中していた書物は、同時期の日本の文学青年のそれと何ら変わるところがないと思ってよいでしょう。タゴールなどは英語版も手にしたかもしれませんが、たいていの外国文学も日本語で読んだと思われます。一九〇二年生まれの小林秀雄が言うように、「私達が文学に頭をつっこんだ時にはもう西洋の翻訳文学は読み切れない程あった」(「故郷を失った文学」)からです。朝鮮語に翻訳された西洋文学も少なく、あったとしてもたいていは日本語からの重訳でした。朝鮮語の大衆的な読み物は、新しい世界に目を開いた青年達の知的欲求を満足させるものではありませんでした。
 芝溶は、あるエッセイの中で自分は高普五年の時にタゴールに熱中していたと書いており、『新人文学』という雑誌のインタビュー(一九三六)では北原白秋、萩原朔太郎の詩が好きだと言っています。朴八陽の記憶によれば芝溶の初期作品の多くは『揺籃』に発表した作品に手を入れて数年後に発表したものらしいのですが、その作風には白秋の影響が色濃くうかがえ、芝溶は京都に行く前から白秋に傾倒していたと思われます。ただ、この頃の芝溶は、むしろ漠然と小説家を志していたようです。「学生の時から将来、作家になりたかったのに、機会はついに訪れなかった。(中略)ひとから『詩人』と呼ばれるのが、このデキソコナイめ、と言われているみたいで嬉しくなかった。俺だって書こうと思えば散文ぐらい書ける――書こうと思えば、泰俊[テジュン]ぐらいのものは書けるのだ、と弁解しつつ散文の練習を試みたのが、一冊の本になった」(「序文」『文学読本』、一九四七)。しかし小説らしいものがあまり残されていないところを見ると、やはり性に合っていなかったのでしょう。
 徽文高普は民族教育で知られる名門の私立学校で、各界に優秀な人材を輩出し、かつ多くの有名な学者が教鞭を取っていました。文学者も鄭芝溶、李泰俊[イ・テジュン](小説家、一九○四~?)をはじめ多数出ていますが、中でも芝溶に大きな影響を与えた先輩は洪思容だったようです。先の朴鍾和の回顧録によると洪思容は卒業後にも後輩を指揮していたらしく、思容の指示に従って芝溶は友人とともに徽文史上初の学園紛争を主導し、教職員に対する糾弾演説をしています。この頃、朝鮮半島各地では独立運動の高潮とともに学生達の民族意識や向学心も高まり、学校内部をも改革しようという機運が高まっていました。(学生が学校当局に改革要求をし、戦術的なストライキをする「同盟休校」は、日本では明治期に既に各地の中学校や師範学校などで多発しています。<H.スミス『新人会の研究』東京大学出版会、一九七八、二二ー二五頁>) 学生達が一九二○年六月五日に施設拡充などを要求する学生大会を開いたため、主導者グループは退学、停学などの処分を受けました(芝溶は無期停学)。最初は半日授業をボイコットするというぐらいのつもりだったのが、処分を受けた学生達に同情して全校生が同盟休学するという事態に発展し、連日、新聞紙面を賑わせる騒動になってしまったのです。しかし結局は学校側が譲歩したため、七月一日からは全校生が復学、芝溶の無期停学処分も取り消しとなり、芝溶はめでたく五年間の学業を終えることができました。学費免除してもらっている分際で、よく糾弾演説などできたものですが、先の処分を発表する時も学校側は「模範生達を処分するのはしのびないのだが…」などと言っているし、芝溶は後に徽文高普の援助で留学させてもらっているのですから、芝溶と教師達との間の対立は実際にはあまり深刻なものではなかったようです。実情は、人の良い芝溶が親しい先輩にけしかけられ、断りきれずに先頭に立ってしまった、というところではなかったでしょうか。先生達もその状況を理解していたのでしょう。