第二部 京都留学と帰国後の活動(一九二三~一九三〇年代前半)        一、同志社大学英文科

  
 校費でやっと高普を卒業した芝溶の家庭事情では、進学など思いも及びません。就職する覚悟でいた芝溶を、徽文高普は日本留学に送ることにしました。留学費用を徽文高普が出すから卒業後は母校に奉職せよというのです。芝溶にとっては願ってもない話でした。校主が芝溶に特別目をかけていたのか、あるいは芝溶の文才を認めて応援してくれる教師が徽文にはたくさんいたのでしょう。家庭はともかく、高普時代の芝溶は良い人々に囲まれていたと言ってよさそうです。また、留学中に子供が生まれていることからすると、妻が実際に芝溶の実家で暮らすようになったのは高普を卒業した頃であろうと思われます。

 芝溶は一九二三(大正一二)年に京都に渡って同志社大学予科に入学し、二九(昭和四)年に同校の英文科を卒業しました。ところで芝溶が入学する少し前まで同志社大学に出講していた有島武郎は、一九二三年七月に軽井沢の別荘で腐乱死体となって発見されています。この有名作家のスキャンダラスな事件が、作家志望の文学青年にある種の動揺を与えなかったはずはありません。また、芝溶の在学時には京都に移住していた柳宗悦がウィリアム・ブレイクやホイットマンに関する講義をしており、芝溶も出席していたようです。柳の先駆的な研究をきっかけに日本の英文学界ではブレイクの研究が大流行していたし、芝溶の卒論もブレイクに関するものでした(彼は後に雑誌のインタビューに答えて「ウィリアム・ブレイクの詩は、専攻学科だったので、仕方なしにたくさん読みました」と語っています。ブレイクが大好きだったという訳ではなさそうです)。芝溶が柳や有島のことをどう思っていたのかは分かりませんが、白樺派の代表的人物が同志社大学英文科の学生達に与えた影響は、小さくはなかったでしょう。一九一八年にかの有名な「朝鮮人を思ふ」を書いた柳が朝鮮人留学生達にどう接していたのか、芝溶が柳教授の講義をどう思っていたのかに関しては、残念ながら記録がないので謎のままです。
 芝溶が留学先に同志社を選んだ理由は詳らかではありません。この頃、日本の文学青年がそうであったように、朝鮮人学生の場合も文学を志す者はたいてい東京をめざし、早稲田などに籍を置きました。明治学院中学時代の朱耀翰[チュ・ヨハン](詩人、ジャーナリスト、政治家、一九○○~七九)が川路柳虹のもとに出入りしたように、東京近辺に在住していれば日本の作家や詩人との交流が始まったかもしれませんが、芝溶は中央から離れた京都にいて、やがてキリスト教への関心を急速に強めてゆきます。
 徽文高普はキリスト教系の学校ではないので、徽文と同志社との間に特別なつながりがあったとは思えません。しかし、木下尚江や賀川豊彦、徳富蘆花、トルストイなどを耽読していたこの時代の文学青年達は、たいてい漠然とキリスト教への関心を持っていました。そして、同志社と関連の深い作家といえば、徳富蘆花です。芝溶が同志社に入ったのは、蘆花の作品と関係があるのではないか…。そう思って蘆花の自伝的小説『思出の記』(一九○一)を開いてみると、冒頭で、いきなりこんな文章が目に飛び込んできました。

僕の故郷は九州、九州の一寸真中で、海遠い地方。幅一里長さ三里と云ふ「もっそう」の底見たような谷は、僕の揺籃[くれえどる]です。

 「くれえどる」というルビを打たれることによって殊更に目立たされている「揺籃」という語が気にかかるのは、芝溶が高普時代に参加していた雑誌のタイトルが「揺籃[ヨラム]」だったからです。これは芝溶が命名したものですが、その由来は知られていません。芝溶の故郷も「海遠い地方」です。京城に「留学」していた芝溶が「思出の記」の主人公に強く共鳴してこの言葉を雑誌のタイトルに採用したのではないか、というのは私の想像ですが、それほど無理な推測ではないでしょう。
 「思出の記」で主人公が入学するのは、キリスト教系の関西学院ですが、こんな一節もあります。

京都の同志社と云ふ学校は此処よりも立派で、東京の大学はまた同志社より十倍立派だ、と云つて聞かした時は、僕の胆はまたまた潰れた。

 現実の蘆花が通ったのは関西学院ではなく同志社でした。やはり蘆花の自伝的小説である「黒い眼と茶色の目」(一九一四)では、まさに同志社における作者の学生生活が、寄宿舎生活や女学生との恋愛も含めて、こと細かに描写されています。芝溶が「思出の記」や「黒い眼と茶色の目」を読んだのかどうかは定かではありませんが、もし芝溶が自ら大学を選んだのならば、芝溶を同志社に向かわせた動機として私が今、考えつくのは徳富蘆花の作品以外にはありません。もっとも同志社大学は英語教育で知られていたので、英語教師のタマゴが入学するのにふさわしいと言うことはできます。芝溶は、同志社での英語の授業中に「淑女おひと方と、紳士諸君! ぜひ訪れたいと思っていた京都、平安の古都に来てみると、聞いていたとおりの所でした」という英語スピーチをしたことがあります。理由はともあれ、彼は京都に来たいと思っていたのです。学科の選択に関しては、帰国して英語教師になることを要請されていたのなら英文科以外は考えられなかったのでしょうが、彼の初期作品全体を通してみても、英文学の影響はそれほど大きくはないようです。
 同志社大学はプロテスタント系の組合派に属するアメリカンボードによってその基礎が築かれたものの、後にアメリカンボードとの関係を絶ったため、いわゆるミッションスクールではありません。芝溶の在学時には一九二○年に就任した第八代総長海老名弾正が同志社教会(キャンパス内にある教会で、一般の教会と同様に運営されており、日本組合基督教会の中心でした)の名誉牧師を兼任していました。宗教主任には札幌独立教会の牧師であった竹崎八十雄、アメリカから来日したバートレットがおり、同志社教会は、日曜にはいつも満員になるほどの盛況を呈しました。キリスト教に天皇主義を接ぎ木したような海老名のキリスト教思想に芝溶が共鳴したとはとても思えないのですが、熊本で横井小楠門下だった海老名は徳富家とも深い関わりがあった人物で、かつ世間の注目を集める人士でしたから、芝溶にとっては好奇心のそそられる対象であったに違いありません。

 京都で芝溶は金ボタンのついた黒い詰襟の学生服に高下駄という姿で、若き徳富健次郎(蘆花)の歩いた街を歩き、健次郎がながめたキャンパスの時計台をながめ、寄宿舎で団体生活を送ることになりました。芝溶は当時の学生生活を、次のように描いています。

留学していた時分の、食事は共同食堂、寝るのは寮の部屋、勉強は図書館、講演、親睦会、礼拝などはホール、何かの対校試合などあれば合宿所で昼も夜も頭や肩を並べるさまざまな共同生活というのも、今振り返ってみれば感慨深くないこともないですね。そうした生活によって僕の青春と放縦が正されていたのだし、一人の社会人として何とかやっていけるだけの力を養うのに、絶対的な効果があったのかも知れません。
(「合宿」)

共同食堂のまずい飯や寮の雑魚寝は二度とごめんだと言いながらも、学生生活の思い出を語る芝溶の口吻は、どこか楽しそうです。次は、陸上競技大会の日に展覧会、模擬店、仮装行列とともに寄宿舎が一般公開された時のエピソードです。一種の学園祭のような行事だったのでしょう。

 何号室かのドアに「人畜同居」と張り紙があるので見てみると、古びた畳部屋に、なぜか仔牛が一頭つながれていて、その横でドテラ姿の学生が勉強するふりをしていたり、また別の部屋のドアに「生ける屍の陳列」と張り紙があるので開けてみると、綿のはみ出た、ぷんぷん臭うほど汚ない布団をかぶって真っ昼間から白眼をむいてずらりと並んで横たわり、見物に来た女学生を驚かせる長髪派の予科生がいたりと、何とも怪しげな展示がたくさんありました。
                         (前掲文)

 一九二○年代の同志社には、バンカラな気風も多少あったようです。他の大学に比べ同志社には、のびのびとした空気がありました。そして芝溶の文学活動が本格化するのは、まさにこの同志社大学留学時代のことです。
 京都に留学したことは結果的に見て幸運でした。東京では、一九二三年九月の関東大震災によって勉学を放棄せざるを得なくなった学生がたくさんいたからです。壊滅的な打撃を受けた都市で暮らすことが困難になったために退学したり他の地方にある大学に移ったりする例は多かったし、朝鮮人留学生の中には上海の大学に移る者もいたそうです。震災の惨状と朝鮮人襲撃のうわさは京都在住の留学生達の心にも暗い影を落としたに違いありませんが、ともかくも距離的に離れていたことにより、芝溶は平穏な学生生活を維持することができました。

 大学に在籍している間、芝溶は『同志社文学』や、同志社の学生達が発行していた同人誌『街』に日本語で書いた詩を発表しています。

薔薇のやう咲きゆく火爐[ばち]の炭火
立春節の夜は藻汐草焼く香りする

一冬[ひとふゆ]越[ご]しの柘榴を割り
ルビーの実を一つびとつつまむ

あゝ透き通つた追憶の幻想を
金魚のやうな幼い触感[さはり]よ

この実は去年の神無月
われらの小い物語りの始まつた頃熟[みの]つた

少女よいつか知らぬ間そつと窺くやうになつた
おまへの胸に真白い仔兎が二匹

伝説の池に泳ぐ小魚の指と指
かすかな銀線のふるへ

ああ柘榴の実をつまみつ
新羅千年の空を夢みる
(「新羅の柘榴」『街』 一九二五年三月、原文日本語)

しんに さびしい
ひるが きたね

ちいさい おんなのこよ
まぼろしの
ふえまめを ふいてくれない?

ゆびさきに
あほーいひが ともる
そのまゝにして きえる

さびしいね

(「まひる」『街』、一九二五年七月、原文日本語)

パンと水を飲む
菜葉服姿の若ものよ
血紅色[まつかな]林檎が恋しくないか?

頬ぺたに
ペンキのしみは
一寸綺麗ね
ちよびつと残した
口ひげに
伊太利人のやうに微笑[わら]ふ
そうだ――そこが好きなんだ

そのラブレターを
お副食[かず]にして食べろ
薔薇[ばら]になる。
(「草の上」『街』 一九二五年七月、原文日本語)


梧桐の葉のそよぐ、蔭ゆれる所
馬は恋しさうで眠い。
今朝の愛は 馬に向かふ。

"兄弟よ。いい天気だ。"
馬の眼[まなこ]に 夕べの新月が 微かにめぐる。
"兄弟よ。頬[ほほ]をお向けよ。よしよし"

ま白い歯なみに 海が冷い。
綠り滴る岸べに朝日が貝細工を輝かしている。
"兄弟よ。空はよく晴れた。恋はいらない"海のすかあとが褶[ひだ]をよせてくる。
"兄弟よ。私は恥しい所を隠してきた。
鼻をならせよ。鼻を"

海のすかあとが褶[ひだ]をよせてくる。
"兄弟よ。私は恥しい所を隠してきた。
鼻を鳴らせよ。鼻を"

雲が大理石いろに拡がってゆく。
鞭は 蛇を 絵く。
"おほつほつほつほつ! おほつほつほつ!
"兄弟よ。もう 悲しくはないか?"

鴎が飛ぶ。海が吠える。
“兄弟よ。快活は悲しい。快活は走る”
南風は笛吹く。八月は旗めく。
(「馬1」『同志社文学』三、一九二八年十月、原文日本語。「すかあと」に傍点)

鵲[かささぎ]は飛ぶ。
馬は随いて行く。
風そよそよ。空は円[まど]か。

ここは私らの国だ。
馬よ。
誰が産んだ?
水はさらさら、お前は知らない。
馬よ。
里でお前は人らしい息をする。
町で私は馬らしい息を凝らしていた。
町で里で母は見あたらない。
誰が産んだ?
野原はひろびろ、私は知らない。
馬よ。
鼻に青豆の花がそよぐ。
日は中天[まなか]。向日葵[ひまわり]は廻る。
ここは私らの国だ。
古代のやうな旅にでやう。
馬は行く。
鵲は随いて来る。
(「馬2」『同志社文学』三、一九二八年十月、原文日本語)