七、劇的転身--プロテスタント、そしてカトリックへ  1) 同志社教会

 同志社(当時の同志社には大学とそれに付属する予科、大学院の他に専門学校、中学校、女学校がありました)はキリスト教を教育理念とする学校ですが、アメリカの宣教団体との関係を断ったため、いわゆるミッションスクールではありません。鄭芝溶が在学していた時の総長は海老名弾正で、海老名は同志社教会名誉牧師でもありました。儒教思想を批判的に継承し天皇主義とキリスト教を継ぎ合わせた海老名の「日本的キリスト教」は、学生達に絶大な人気を博していたそうです。芝溶の次の文章は、当時の雰囲気をよく伝えています。

 ある時、海老名総長が理事ともめて、辞任することになりました。学生たちが蹶起してストライキをしたので、騒ぎが大きくなりました。
「海老名総長を留任させよ!」
「海老名総長を支持せよ!」
「海老名総長のために我々は一戦も辞さない」
 そんな激しい文句のポスターが教室、テーブル、掲示板、入口、受付、外壁に張られていたり、運動場に落ちていたりしました。どのポスターにも海老名総長の顔が大きく描かれていて、赤いインクでいくつも丸をつけてありました。
                     (「愁誰語 四」)

 同志社大学キャンパス内にあった同志社教会(当時は日本組合派の中心でした。今は日本基督教団に属し、場所を同志社女子大学のキャンパスに移しています。昔の同志社教会の建物は現在「礼拝堂」として、元の位置にそのまま保存されています)は学生や教職員のために設立されたプロテスタント教会で、一般の教会と同じ方式で運営されていました。芝溶は英文科二年の時、この教会で洗礼を受けてクリスチャンになっています。ところがそのわずか数カ月後、彼はカトリックに傾いて河原町のカトリック教会で洗礼を受けるのです。この唐突な転身の背景を、これからたどって行かなければなりません。
 先に述べたように海老名総長は若い人々から絶大な支持を受けていたものの、海老名のキリスト教は植民地侵略に加担する面がありましたから、芝溶が海老名の説教を聞いてキリスト教に入信したとは、ちょっと考えられません。ところで、芝溶が同志社教会で洗礼を受けた一九二七年頃は同志社でキリスト教信仰が劇的に昂揚した時期であり、「同志社のリバイバル(信仰復興)」と呼ばれていました。『同志社教会―― 一九〇一~一九四五』(注:同志社教会史編集委員会編、二〇〇一)という本によれば、芝溶が入学した一九二三年の同志社教会の信者数は一一七二名で、礼拝には平均三七七名が出席していました。一九二四年の信者数は一一八五名です。一九二五年一月には賀川豊彦(注: 一八八八~一九六〇。キリスト教社会運動家。自伝的小説『死線を越えて』(一九二〇)は空前のベストセラーになりました。)が招請され二週間の特別伝道を行いましたが、その年の信者数は一二四六名に増加しました。同志社教会創立五〇周年にあたる一九二六年には卒業生六八六名中一八〇名が信者だったそうです。しかし同年十一月に牧師がほかの教会に移って以来、同志社には正式の牧師がいませんでした。
 一九二七年一月、ハワイの日本人教会で目覚ましい成果を上げていた同志社出身の堀貞一[ほりていいち](一八六一~一九四三)牧師を招請した特別伝道が同志社で行われました。特別伝道の最後に同志社教会で行われた洗礼式(一月三十日)では、二七八名が洗礼を受けています。堀牧師の影響力がどれほど大きいものであったか想像できるでしょう。一九二七年十一月十三日、堀牧師は同志社教会第十代主任牧師兼同志社大学宗教主任として就任し、芝溶はそれを待っていたかのごとく同じ日に入会志願書(この文書を探して提供してくれたのは同志社教会佐伯幸雄牧師です。改めて深い感謝の念を表したいと思います。)を出しています。

入会志願書

姓名:鄭芝溶
誕生日:明治三十六年五月十五日
学級:同志社大学文学部英文学科第二課程
原籍:朝鮮忠北沃川郡沃川面下桂里
現住所:京都市上京区今出川寺町西入ル上塔ノ段町四九一
職業:農業
戸主との関係:親子
決心の動機:救はれたい、といふ心の要求から。

昭和二年十一月十三日
志願者 鄭芝溶
同志社教会御中

同年十一月二十四日から四日間にわたって行われた賀川豊彦の特別伝道は、千名もの聴衆を集めました。そして芝溶が洗礼を受けたのは、その翌月です。
  一九二八年六月に実施された調査では、同志社の各学校に在学する学生数四九三六名中キリスト教信者は八〇七名であり、教職員一八一名中九五名が信者だったそうです。一九二七年前後の「リバイバル」は海老名というよりは賀川豊彦、そして誰よりも堀牧師の力で成し遂げられたと見るのが妥当でしょう。
 
 堀牧師は人間的な魅力に溢れた人物だったようです。堀は情熱的でありながら率直であり、謙虚でした。日本人に分かりやすい具体的な比喩を使って説教をしました。そして、常に実践的でした。

たとへば、学生を教へる場合に
  「親を忘れるな」
といはれる。親許へ通信を怠つてゐる者があると、
  「なぜ親に手紙を書かぬか」
と叱られる。而して、教会でそれらの学生の親たちの為に祈られる。親の恩を説かれる。
(管井吉郞、『堀貞一先生』、一九四四、pp. 二四六~二四七)

 一九二七年一月の特別伝道の時、堀はすでに六五歳でしたが、実に熱心に各地を回って感動的な説教で人々の心をつかみました。ある日、同志社中学で開かれた講演会で堀が「洗礼を希望する者は起立せよ」と言うと、座っていた学生すべてが起立したそうです。英文科の教室でも学生達が祈りをささげ、讃美歌を歌いました。英文科二年生の芝溶も、その輪の中にいたはずです。
 しかし、堀牧師を知る人々はいちように、堀の教えには体系的な理論がなかったと証言しています。堀の伝記を書いた菅井吉郎ですら、「然うした驚くべき力量を持つた先生であつたが、一体先生の何処が偉かつたのか、今日吾々先生の値遇を受けた者に取つての一種の謎である。」(菅井吉郎、前掲書、二四六頁)と書いています。堀や賀川の影響を受け、社会主義的キリスト教を唱えて学生たちに人気のあった法学部教授中島重(中島は同志社教会役員として教会でも積極的に活動していました)は堀の教えに学問的根拠がないことを遺憾とし、海老名総長は「堀さんの良い所は神学のないところだ」と語りました。それゆえ堀を主任牧師に招く時も、リバイバルの熱風が衰えた時も、体系的な哲学を欠く堀を批判するむきがありました。
 先の「入会志願書」で芝溶は、「救はれたい、といふ心の要求」があると書いています。芝溶が何に悩んでいたのかについては想像するほかありませんが、文学的野心と家長としての責任、日本の植民地に転落した故国の状況と自らの立場、体にしみついた儒教思想と新しい価値観との衝突など、内面的な葛藤を引き起こす問題は、いくらでも考えられます。秘かに思いを寄せる女性がいたかも知れないし、社会主義に傾いた留学生仲間からは共に活動するよう誘われていたようです。たとえば、一九二四年四月から一九二七年三月まで同志社女学校に在学していた金末峰[キム・マルボン](小説家、一九〇一~一九六三)は既に社会批判的な文章を発表していましたし、同じ時期に京都帝国大学に通っていた鄭蘆風[チョン・ノプン](評論家、一九〇三~?)と、その仲間である金哲鎮[キム・チョルジン]は「新しい意識」を持つように芝溶を説得しようと試みていました。そうしながらも金哲鎮は、芝溶が彼らのそういった圧力に対して「ある種の恐怖」を感じるのではないかと憂慮もしています。(鄭蘆風、「詩壇懐想3」、東亜日報一九三〇年一月十八日)そうした時に芝溶の悩みを解決してくれるように見えたのが、賀川豊彦のキリスト教的社会主義または中島重の社会主義的キリスト教であり、理論も哲学もおかまいなしに訴えかける堀牧師の情熱だったのかもしれません。

 次の引用文は芝溶が『近代風景』第二巻第四号(一九二七年四月)に日本語で発表したものです。

 姉さまは僕の信心深くないことを非難する。
 孔雀が羽を拡げるやうな僕の詩情を、イムポライットな振る舞ひを非難する。深刻さと思慮と上品さを要求せられる度に軽い血が上の方に流れるのを感じる。
 姉さま。僕は哲学や宗教や品行の以前――少くとも野蛮な状態。紫色の時代にゐるのであります。私達は慎重である前に先づ如何にして空気の中で自由であり得るか、稀れに出食はされるビーフティツクの切れが如何に物足らぬものであるかが問題であります。
 ややもすれば演説に脱線する折、姉さまよりお祈りを強ひられる。あの額の大理石色の緊張さと不思議にも神性で朗々たるお祈りの声で僕はいよいよ小さい悪魔にされる。
 神さま。姉さま。僕は決して悪い人ではありません。
                  (「春三月の作文」、最終部)

時期的に見て、これは芝溶が同志社教会でプロテスタントの信仰を持ち始めた頃の話でしょう。芝溶が一九二七年三月に「信仰が足りない」と「姉さま」から叱られていたとすれば、やはり芝溶がプロテスタントを信じだしたのは、一九二七年一月初めに行われた堀牧師の特別伝道などを契機としたものであると思われます。
 そして、この「姉さま」はおそらく金末峰でしょう。彼女は一九〇一年生まれで、一九〇三生まれの芝溶よりも年上です。『同志社教会員歴史名簿』には金末峰の名が見当たらないのですが、金末峰が卒業する時の同志社女学校の卒業アルバムでは、堀貞一牧師がまるで担任教師のように多くのクラスの集合写真において、最前列の真ん中に座っています。同志社女学校は大学より規律が厳しく、宗教教育も徹底していたのでしょう。金末峰は幼時よりプロテスタント系の学校に通い、後に流行作家として名を馳せたのみならず、長老派の教会で朝鮮最初の女性長老となった人物として知られています。廃娼運動など、社会的な活動にも尽力しました。女学校の卒業アルバムの中での金末峰は色白の丸顔で、いかにも意志の強そうなきりっとした顔つきで写っています。
 「姉さま」は、この頃書かれた詩にも登場します。「姉さん、黒いこの夜が真っ白になるまで/つつましやかなミューズのようにお眠りなさい」(「葉書に書いた文章」、拙訳。「一九二七年三月 京都」という付記があります)。「悲しい汽車」(この詩は「一九二七年三月 日本東海道線車中」で書いたとあります)では、話者と一緒に汽車で旅する「マダムR」が、話者のために子守唄を歌っています。「姉らしい唇に今日こそ思い切りお辞儀してお返ししよう」(拙訳)という一節をみれば、マダムRは話者よりも年上の女性です。この二つの詩と「春三月の作文」が一九二七年三月に書かれていることを考えれば、詩に登場する女性のモデルは「春三月の作文」の「姉さま」と同一人物だと思っていいでしょう。
 金基鎮や柳致環[ユ・チファン](詩人、一九〇八~六七)は、芝溶と金末峰が京都時代に親しかったと証言しています。

拉致された鄭芝溶が、一九二六年の夏、朝鮮之光社を金末峰とともに訪れた時、偶然私も立ち寄ったために会ったのだが、その時、彼は学生服を着ていた。
 (金基鎮「『白潮』同人と従軍作家団」、『現代文学』、一九六三年九月号)

芝溶はそのキンキン響く金属製の声が、詩を朗読するといっそう哀調を帯びて震えた。道を歩いていても芝溶はよく何かに思いふけっては、ひとりで小さく詩をつぶやいていた。私がたまに釜山からソウルに行くと、当時釜山にいた、今ではもう個人となった女流作家K女史(金末峰のこと、引用者)の消息を芝溶はよく尋ねた。そのK女史に関する話を芝溶がしたことがあるのだが、学生時代に同じ京都に留学していたKが、あるとき休暇で帰省中の芝溶を、彼の故郷である沃川のクェコリに訪ねてきた翌朝、台所に入った仔犬が芝溶夫人に蹴られてひどく鳴きわめき、芝溶の厳父が嫁をそっと呼びつけて、お客様が来ているのに何をするのだ、と叱ったというのだ。芝溶がこうした話をしたのは、ひとりで静かに詩をつぶやく心情と同様の瞬間だったかも知れない。
  (柳致環「叡知を失った悲しみ」『現代文学』、一九六三年九月号)

 芝溶が『朝鮮之光』に六四号(一九二七年二月)から詩を発表していることからすれば、一九二六年の夏休みに金末峰とともに帰国し、『朝鮮之光』編集部に原稿を届けに、あるいはあいさつに立ち寄ったのであろうと思われます。「一九二六 夏 玄界灘にて」という付記のある「甲板の上」の「そなた」のモデルは金末峰であると断定してもよいでしょう。
 芝溶の文章に「姉さま」が現れるのは一九二七年三月で、これはちょうど金末峰が女学校を卒業する時期に当たります。そのころ芝溶は、信仰が足りない、と「姉さま」に叱られながら教会に通っていました。恋愛と呼べるほどの仲ではなかったかも知れませんが、芸術の女神ミューズになぞられるぐらいなら、少なくとも芝溶は「姉さま」を思慕していたとは言えるでしょう。
 芝溶は後に、「思春期に、恋愛する代わりに詩を書いた。それが詩集になってよく売れた」(「散文」、一九四八)と書いています。故郷に妻がいた彼は「姉さま」に向かって正直な心情を吐露できず、その代償に詩を書いたのかも知れません。妻帯者であった彼に、それはあまりにも遅い「思春期」でした。