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ライプチヒのアダムとイヴ 太田博樹

「猿人・原人・旧人・新人」。人類の進化の過程を教科書で左記のようにならった方も多いでしょう。我われ人類は、チンパンジーとどこで分かれ、どのような進化を経て、現在の姿形に至ったのか。
昨今のDNA解析技術やコンピューター・サイエンスの発達とともに、かなりのことが明らかになっています。
やさしい言葉で、私たちに語り掛けてくれる『古代ゲノムから見たサピエンス史』は、私たちの知識のブラッシュアップにお薦めな1冊!
著者の太田博樹先生のエッセイを特別に公開します。

 北方ルネッサンス期の画家であるルーカス・クラナッハ(父)は、多くの宗教画を描いたが、「アダムとイヴ」を描いた作品は一〇点以上確認されているそうだ。拙著『古代ゲノムから見たサピエンス史』のカバーに示された「アダムとイヴ」は、そのうちの一つで、プラハ国立美術館所蔵のものである。

 クラナッハの作品は、日本でも広く馴染みがあるが、特に世界史の教科書に載っているマルチン・ルターの肖像画がよく知られている。ルターより一〇歳ほど年長であったクラナッハは、親交が深かったルターの肖像画を多く描いている。私も以前コペンハーゲン国立美術館で、クラナッハが描いたルターの一つを観ることができた。想像していた以上に小さい作品であった。

 贖宥しょくゆう状への批判を強めていたルターらと、その主張を批判した神学者ヨハン・エックとの討論会が、一五一九年、ライプチヒで開かれた。ライプチヒは神聖ローマ帝国有数の商業都市で、街の中心に聖ニコライ教会と聖トーマス教会の二つの教会があった。この有名な討論会の後、ルターとカトリック教会との断絶は決定的となり、ライプチヒの二つの教会はプロテスタント化した。一五三九年には、ルターが聖トーマス教会の講壇で説教を行ったが、クラナッハが本書カバーバージョンの「アダムとイヴ」を描いたのは、ちょうどこの時期のものである。J・S・バッハが、聖トーマス教会の専属オルガン奏者兼指揮者として就任したのは、それから一八五年後のことであり、聖ニコライ教会で行われていた集会に端を発したデモ行進が、ベルリンの壁崩壊による東西ドイツ統一のきっかけとなったのは、さらに二五〇年以上のちの出来事であった。

 ライプチヒにマックスプランク進化人類学研究所が創設されたのは、ベルリンの壁崩壊から約一〇年後のことで、この研究所の愛称「MP-EVA(マックスプランク・エヴァ)」の「Eva(エヴァ)」は、言うまでもなく「アダムとイヴ」の「Eve(イヴ)」である。私は日本学術振興会の海外特別研究員として、創設直後のMP-EVAで二年間、研究生活を送った。ちょうど聖ニコライ教会の背面にライプチヒ大学の教員用宿舎が建っていて、その五階から六階にかけて二階建てのアパートメントが、私の住み処であった。

 現生人類の起源に関して論争した二つの仮説「多地域連続進化説」と「アフリカ単一起源説」のうち、後者の証拠となるデータを遺伝学的に示した最初の論文が一九八七年に出版された。この論文で展開された「ホモ・サピエンスは二〇~一〇万年前にアフリカ大陸で誕生した新種である」という主張が、他の研究者から「イヴ仮説」と呼ばれ、広く知られるようになった。この遺伝学研究を主導したカリフォルニア大学バークレー校のアラン・C・ウイルソンは一九九一年、残念ながらこの世を去った。一方、論争は九〇年代の後半まで続き、その決着を画期とし、ウイルソンの研究室の博士研究員(ポスドク)であったスヴァンテ・ペーボや、ウイルソンの学生で「イヴ仮説」論文の著者の一人であったマーク・ストーンキングなどスター研究者を中心として「エヴァ」は創設された。

 現在では、ホモ・サピエンスはアフリカ大陸で誕生し、七〜六万年前にアフリカ大陸からユーラシア大陸へ進出したサピエンスが、地球のあらゆる地域へ拡散した、というシナリオを多くの研究者が受け入れている。それ以前にユーラシア大陸に拡散したホモ・エレクタス(原人)やネアンデルタール人(旧人)は絶滅し、彼らは現生人類の直接の祖先ではなかったとする「アフリカ単一起源説」が「多地域連続進化説」より正しかった、と。しかし、旧人の一部とサピエンスは、サピエンスのユーラシア進出直後に交雑しており、ネアンデルタールのゲノムの一部は、サピエンスのゲノムに残っていた。この事実は、「アフリカ単一起源説」の一部修正を迫るものであり、これが現在の私たち現生人類の誕生と進化に関する最新のシナリオである。

 このシナリオが作り上げられていく過程で大きな貢献をしたのが「古代ゲノム学」である。ネアンデルタール人やその姉妹種であるデニソワ人のゲノムを解読した成果を理由として、スヴァンテ・ペーボは二〇二二年のノーベル医学・生理学賞を受賞した。

著書『古代ゲノムから見たサピエンス史』の書影

 一九八四年頃にその萌芽的研究がなされた当初、「古代ゲノム学」は「古代DNA分析」と呼ばれ、それから一九九〇年代末までは分析技術の一つでしかなかった。ヒトの全遺伝情報を「読む」というヒトゲノム解読計画で採用されたDNAの塩基配列の決定技術は、一九七七年にフレデリック・サンガーが開発したジデオキシ法を基礎としており、二〇〇三年にヒトゲノム解読完了が宣言されると、より安価で早い技術の開発が求められた。その際、次世代シークエンス(next generation sequencing:NGS)と呼ばれる複数の新技術が誕生した。この技術を上手く応用し、「古代DNA分析」は「古代ゲノム学」として発展したのだ。

 ジデオキシ法(一九八〇年、化学賞)にしろ、PCR法(一九九三年、化学賞)にしろ、iPS細胞(二〇一二年、医学生理学賞)にしろ、ゲノム編集(二〇二〇年、化学賞)にしろ、ノーベル賞は生命科学に広く応用され、インパクトの大きかった発明や発見に贈られる場合が多い。はたして、ペーボの古代ゲノム研究は、それに当たるだろうか? 彼の初期の研究はPCR技術を基礎としており、ネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解読は、NGS技術を基礎としている。どちらもペーボの発明ではない。彼のノーベル賞受賞に関する最も合理的な説明は、彼が“古代ゲノム学という学問を作った”ことだろう。それは私が『古代ゲノムから見たサピエンス史』で描きたかった研究の舞台裏と背中合わせの関係にある。

 ルターは宗教改革を起こそうとしたわけではない。ましてやプロテスタントを創設しようとしたわけでもない。贖宥状に対する批判は、ルターが最初ではなく、一〇〇年近く前のヤン・フスが既に言い出していたことである。ルターがやったことは、聖書に立ち返り、読み、そこに書いてあることと、書いていないことを、明確に区別した。そして、それをラテン語ではなくドイツ語で一般の人々に伝えたのだ。ペーボがやったことは、ルターに似ているなあ。クラナッハの描いたマルチン・ルターの肖像画を眺めながら、ふと私はそんな考えに思い当たった。

 ネアンデルタール人は現生人類とは別種であるという考えは、ペーボがネアンデルタール人DNAを分析する前からあった。ネアンデルタール人と現生人類が、ある程度は交雑していたかもという考えも、以前からあった。しかし、ネアンデルタール人のゲノムを実際に読んで「現生人類、特に非アフリカ人のゲノム中、一~四%がネアンデルタール由来である」という事実を数字をもって示したのはペーボであった。それはルターが意図せずしてプロテスタントを生み出したのと似ているような気がするのだ。今回のペーボのノーベル賞受賞は、世界の見え方を大きく転換する知的活動に、スウェーデン王立科学アカデミーは高い価値を認めます、という宣言のように私には思えた。それは、日本を含む現在のアジア諸国やアメリカ合衆国からは、決して出てこない価値観だ。そんな歴史に根ざした価値観を、いまでも欧州は持ち続けている。ペーボのノーベル賞受賞は、そんなことを示しているのではないか。もし、本当にそうであるならば……、私は欧州の底知れぬ大きな力を感じている。
(おおた ひろき・東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻教授) 


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