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成朝―鎌倉時代仏師列伝 外伝― 山本 勉

 『鎌倉時代仏師列伝』では、名仏師・知られざる鎌倉仏師、39名を紹介しましたが、まだまだ知られていない職人は沢山います。今回紹介するのは、成朝(せいちょう・じょうちょう)。
 奈良仏師定朝(じょうちょう)の直系からは外れましたが、頼朝から招かれ文治元年(1185)に勝長寿院の丈六皆金色阿弥陀仏を完成させます。奈良から鎌倉に活路を見いだした仏師の姿に、当時彼らがおかれた社会状況をうかがい知ることが出来ます。

 昨年上梓した『鎌倉時代仏師列伝』では、鎌倉時代(一一八五~一三三三)の事績が知られる仏師を項目としてとりあげたが、確定作品が現存することも採録の条件とした。仏像の銘記や納入品に仏師名が多くあらわれるようになった、この時代の有力作家であっても、確かな現存作品にめぐまれず、『列伝』に洩れた者もいる。成朝(生没年不詳)もその一人である。

 成朝の系譜と後白河院政期の奈良仏師 成朝は奈良仏師の正系をつぐ康朝こうちょうの子で、仏師の祖定朝じょうちょうから数えて六代目の直系である。その名は便宜的に「セイチョウ」と呼ぶことが多いが、おそらくは先祖と同じ「ジョウチョウ」という音が本来であったにちがいなく、自負なり周囲の期待なりがこめられていたはずだ。

 奈良仏師は定朝直系三代目の頼助らいじょ以後の、摂関家の氏寺興福寺の仏像の修理・新造を仕事の中心とした系統である。京都で宮廷や摂関家の造像を担当した円派・院派にくらべ僧綱そうごう獲得の機会などの点で不利であったが、挽回をはかったのが、頼助の子で成朝からすれば祖父にあたる康助こうじょである。康助は鳥羽上皇期に関白藤原忠実ただざねに重用されて京都進出を果たし、最終的に後白河上皇御願の蓮華王院れんげおういん本堂千体千手観音菩薩像造像の大仏師にまでのぼりつめた。成朝の父康朝こうちょうは本堂供養時に康助の譲りで法眼ほうげんになっている。このときの奈良仏師康助・康朝一門の優位の状況をみれば、御曹司成朝の将来は前途洋々たるものだったろう。

 しかし、康朝のあと、蓮華王院の造像を担当するのは、康朝の弟子康慶こうけいで、治承元年(一一七七)暮に供養された五重塔の造仏賞で法橋ほっきょう位にのぼる。成朝の名はみえない。『列伝』の共著者武笠朗は、この間の事情について、「奈良仏師の後継を巡る何らかの重要な動きがこの御塔造像においてあったものと推察される。それが康慶の自立に、また正系に連なるが若い成朝の不遇に及んだとみられれば興味深い」としている(「蓮華王院長寛造像の研究(二)」『実践女子大学美学美術史学』三二、二〇一八年)。

 興福寺食堂大仏師 『養和元年記』治承五年(一一八一)七月八日条は、南都炎上後の興福寺主要堂の仏像の御衣木加持みそぎかじを記録する。成朝の名はここに食堂じきどう大仏師としてようやくみえ、「無官」と注され、このとき「捨てられるごとく」であったが訴えにより大仏師になったとも付記される。直前には、金堂・講堂の担当が院派仏師院尊に決定されたことに対し、成朝が円派仏師明円とともに後白河院に裁定を申し立てたことを、蔵人頭吉田経房つねふさが記録している(『吉記』治承五年六月二十七日条)。成朝は、みずからの地位「南京大仏師」は定朝を初めとして覚助・頼助・康朝・成朝がこれを継承して興福寺の再興造仏にたずさわってきたと正統性を主張し、とくに講堂の仏像に頼助が奉仕した際に作成された「引懸ひつかけ」(仏像製作にかかわる図面)が成朝の家に留められているとも語った。このあたりは、京都仏師に対抗するだけでなく、弟子筋の康慶と自身との差異を強調しているようにもみえる。吉田経房は、このあと明円の訴えに理が認められたことを記すが、成朝のことはあまり問題にならなかったとしている。

 しかし、食堂本尊千手観音菩薩像の造像はしばらく進捗した気配がない。現存する本尊像は像内納入品の年紀によれば、御衣木加持から半世紀近くあとの安貞二年(一二二八)ごろに完成したものである。当然成朝の手になるものではない。

 鎌倉参向と勝長寿院本尊の造立 焦燥の時期の成朝に声をかけたのは鎌倉である。すでに権力を確立していた源頼朝は元暦元年(一一八四)秋に父源義朝のために一寺の建立を企て、翌年五月にこの堂(南御堂)の仏像を造るため、成朝を鎌倉に招いた。同年(文治元年)十月に丈六皆金色阿弥陀仏が完成し、堂は勝長寿院しょうちょうじゅいんと号して供養をとげた(以上『吾妻鏡』)。頼朝がみずからの強烈な嫡流意識から定朝正系の嫡男成朝を起用したとする説もあるが(塩澤寛樹『鎌倉時代造像論』二〇〇九年、吉川弘文館)、成朝招請の前提に、治承元年(一一七七)の康慶作地蔵菩薩像(静岡県富士市・瑞林寺)以前にさかのぼる、頼朝周辺と奈良仏師との関係や、のちにも鎌倉方から康慶が高い評価を受けていることを思えば(『列伝』の康慶の項参照)、成朝招請の意味も考え直すべきだ。新権力者鎌倉殿の大仏師となったことに彼が活路をみいだしたことは想像にかたくないが、勝長寿院像は現存せず、このあとの幕府関係の造像を主として担当するのは康慶の子運慶だった。

 東金堂大仏師と金堂弥勒浄土像 『吾妻鏡』文治二年(一一八六)三月二日条には、成朝が興福寺東金堂造仏担当の権利があることを頼朝に訴える言上ごんじょう状と取り次いだ頼朝の、前出の吉田経房宛ての推挙状を載せる。成朝の訴えは彼が頼朝の造像のために関東に下向した間に、院派仏師院性いんじょう(院尚)が東金堂造仏を望んでいると知ってである。しかし、東金堂本尊は翌年三月に堂衆が飛鳥山田寺から奪取した飛鳥時代の三尊像で充当され、成朝によって造られることはなかった。

著書『鎌倉時代仏師列伝』の書影

 次に建久五年(一一九四)九月の興福寺供養の際の『愚昧記』の仏師勧賞けんじょうの記事に成朝の名がみえる。それぞれ講堂仏師院尊いんそん、金堂仏師明円の譲りで法橋になった院俊いんしゅん宣円せんえんとともに、金堂弥勒浄土仏師賞で法橋になった成朝の名があがる。弥勒浄土とは中尊・四菩薩・四天王の群像で、御衣木は明円みょうえんが注文していた。なぜ成朝が担当できたかは謎であるが、明円の配慮があったかと想像できなくもない。ともあれ成朝の名が同時代史料にあらわれるのは、これが最後である。

 成朝作品候補① これまでに成朝作品の可能性が指摘された現存作品がいくつかある。代表的なものが興福寺国宝館に展示される木造仏頭である。西金堂本尊釈迦如来像の頭部が両手先とともに残ったものだが、かつてはその作者を記す史料が知られず、康慶とも運慶とも作風がちがうとして、これを成朝の作とする説が有力だった。しかし、二〇〇七年に、文治二年(一一八六)正月に運慶が釈迦如来像を西金堂に奉渡したとする『類聚世要抄』の記事が紹介され、仏頭は運慶の作と確定した。

 成朝作品候補② 静岡県伊豆の国市・願成就院がんじょうじゅいんの運慶作阿弥陀如来像を成朝作品とする三山進の提案がかつてあった(『鎌倉と運慶』一九七六年、『鎌倉彫刻史論考』一九八一年、いずれも有隣堂)。北条時政による願成就院造像は当初成朝が担当したもので、成朝が中尊阿弥陀像を完成したあと、前記した興福寺東金堂造像をめぐる相論のなかで奈良に帰り、残りの不動明王二童子・毘沙門天などを成朝に随行していた運慶が完成させたとする大胆な推論である。諸点に問題が多く、発表当時から認められなかったが、三山は「不遇な成朝に心惹かれ」論をなしたと述懐している。

 成朝作品候補③ ほかにもある。甲斐源氏安田義定よしさだが寿永三年(一一八四)に創建した山梨県塩山市・放光寺の近世の記録によれば、同寺金剛力士像は義定が勝長寿院造像のために鎌倉滞在中の「南都彫工浄朝じょうちょう」に彫らせたものといい、浄朝は成朝をさすのだろう。放光寺には鎌倉前期製作とみられる金剛力士像が現存し、鈴木麻里子はこれを成朝の作として認め、さらに山梨県笛吹市・瑜珈寺十二神将像をこれに続く造像と評価したが(「山梨・放光寺仁王像について」「山梨・瑜珈寺十二神将像について」『仏教芸術』二四五・二五三、一九九九・二〇〇〇年)、作風検討の前提となったのは、前記した興福寺仏頭であったから、これらも根拠を失ったことになる。

 こうして成朝は『鎌倉時代仏師列伝』登載の選に洩れた。彼の不遇はいまなお続くようだ。

(やまもと つとむ・鎌倉国宝館長) 


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