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新視点からよみとく江戸時代 野口朋隆

〔刊行の意図と目的〕 現在、大河ドラマでは、駿河の大名今川家の人質となったものの、やがて三河国を統一して天下人にまで昇りつめた徳川家康を主人公とする「どうする家康」が放映されている。徳川家康は、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いで勝利し、同八年、征夷大将軍となり江戸幕府を開いた武将として、学校教育でも必ず習うことから、日本人にとって最もなじみの深い歴史上の人物の一人といえるだろう。もっとも注意したいのは、家康が自ら「江戸幕府を開いた」と言ったことはないということである。征夷大将軍となったことで江戸幕府を開いたと後世の人間が位置付けたのである。これは家康に従った大名=藩も同じで、伊達政宗が自ら「仙台藩を立藩した」と宣言したこともない。儒学者が使用していた中国の「藩」という用語を大名家に当てはめたことが、やがて一般化したもので近世後期以降、広く使われるようになった。江戸時代、一般的に江戸幕府は「公儀こうぎ」「公辺こうへん」「柳営りゅうえい」「徳川家」などと呼ばれ、藩は各地域における「公儀」「伊達家」などと呼ばれていた。

 前置きが長くなってしまったが、本シリーズは「家からみる江戸大名」として、江戸幕府や藩を、徳川家や大名家というように「家」という視点から見てみたいという意図から企画が出発した。もちろん、江戸時代の徳川家は大名家=藩ではなく、当主は征夷大将軍に任官して大名を従える存在であった。ただ歴史に詳しい方なら、幕末の慶応四年(一八六八)四月、最後の将軍徳川慶喜が江戸城を無血開城して隠居をし、養子田安たやす亀之助が徳川宗家を相続して駿府藩を立藩し明治四年(一八七一)の廃藩置県まで続いたことはご存じのことだろう。そういう意味では、徳川家も藩になった歴史があるものの、本シリーズでは、この時期の駿府藩はあまりに期間が短いため藩の対象外とした。

 しかし、徳川家康は、他の戦国大名家と同じく、家臣団を率いて自身の領地を治める、徳川(松平)家の当主であり、これは歴代の将軍も同じである。徳川家は、自余じよの大名家とは異なり、朝廷との交渉・支配、外国との外交権、金貨や銀貨といった貨幣の鋳造権など、日本全国を支配するための諸権限を有する徳川公儀として日本全体を統治していたが、一方で、男子による家督相続、分家の創出(御三家など)、祖先崇拝、屋敷および人的組織の内部構造としての「表」と「奥」など、「家」的要素は大名家と同様に持ち合わせていた。こうしたこともあり、本シリーズでは総論編として『徳川将軍家』を最初に刊行することにした。それから、本書の大きな目的は、日本各地において地域を治めた藩の「家」的側面を明らかにすることである。それぞれの大名家には家臣団統制の在り方や、徳川家との関係、地域における支配の在りようなど、個々の歴史があり、こうした独自性とともに、「家」としての共通点も見出すことができればと考えている。

〔徳川家における「奥」と「表」〕 本書『徳川将軍家』において重視したのは、三代将軍徳川家光を中心にして、各家臣との関係を描き出すことであった。具体的には、これまでは将軍と老中や側用人との関係というように、二者間の関係で捉えられがちであった。しかし本書では、江戸城内における空間構造および「家」組織としての「奥」、とりわけ日常将軍が生活をする「中奥なかおく」に注目して、「表」の老中や家門大名、外様大名などに対して、将軍の近習きんじゅうであった若年寄、側衆、小姓、さらに物頭ものがしら層(徒頭、小十人頭、先手頭など)や高家などまでを含めた「中奥」の全体像を明らかにしていくことで、これと「表」がどのように関連しているのかを考えることを意図している。家光が個人的に取り立てた近習である堀田正盛まさもり、稲葉正勝まさかつ朽木くつき稙綱たねつな久世くぜ広之などが後に老中となっていくのである。本書ではこの過程を追っている。徳川家の内部構造を考える場合、「奥」(「中奥」)と「表」がどのように連関しているのか明らかにする必要がある。

『家からみる江戸大名 徳川将軍家―総論編―』の書影

〔徳川家の内部構造〕 もう一点、本書において大切にした考え方として、徳川家内部の家臣団における本家と分家、嫡男と庶子、家格の高下、さらに親族関係といった、当時の人々が日常において認識していた意識を取り上げるということである。例えば、家光は、堀田正盛、稲葉正勝、斎藤三友といった乳母春日局につながる者たちを近習として取り立てたり、三浦正次まさつぐ(本書で土井利勝と極めて近い親族であることを明らかにしている)、朽木稙綱、京極高通たかみちといった庶子筋を近習としていったが、彼らは徳川家内でも高い家格を与えられていた尾張・紀伊・水戸各徳川家や三河時代に国衆であった歴史を持つ譜代大名家(後の帝鑑ていかん間に殿席を持った譜代大名)と異なる出自であり、こうした高下があるなかで全体として徳川家の秩序が成立していたのである。さらに四代将軍となる家綱への家臣団分与において、小姓は譜代大名や一部の外様大名それぞれの庶子がほとんどであった。そして、この中から次世代の近習が再生産されていった。

〔徳川「家」を構成する要素〕 本書では、徳川公儀を「家」的側面から考えるにあたって、家紋、年中行事なども取り上げた。例えば、徳川家といえば三つ葉あおいで有名だが、戦国時代には、他の松平庶家も使用していた。しかし徳川家では寛永期を境にして使用を禁じており、将軍家以外、基本的に御三家、またその分家(江戸時代中後期には御連枝ごれんしと呼ばれていた)のみに限定して用いることで、葵紋は近世における徳川一族の象徴となっていく。

 江戸幕府の年中行事と言えば、正月の年頭と八月一日の八朔はっさくが最大であったが、他にも一年間を通して、様々な儀礼が江戸城内で行われた。これらは大名であれば誰でも参加できるものではなく、各行事によって参加できる大名・旗本は決まっていた。例えば、毎年七月十五日の盆に父母を敬う生見玉いきみたまの祝儀では、家長である家光に対して、御三家を始めとする「家門大名」のみ黄金を献上した。特に家康の九男徳川義直(尾張藩)や十男徳川頼宣(紀伊藩)がいるなかで、彼らもまた甥にあたる家光へ黄金を献上することで、誰が徳川家の家長であるのか再確認されていくのである。さらに、この生身玉において興味深いのは、『江戸幕府日記』では、「家門大名」として、現在の教科書的理解による御三家や越前松平家などばかりでなく、金沢藩主前田光高みつたか、広島藩主浅野光晟みつあきら、鳥取藩主池田光仲みつなかといった外様国持大名も含んでおり、これらを合わせて「家門」・「一門」と表現している。江戸時代前期における徳川家の親族観を考える上で大変興味深い。

〔過酷な運命を背負った千の生涯〕 本書では、徳川家の女性にも注目した。なかでも最初豊臣秀頼に嫁した秀忠の長女で家光にとって姉にあたる千(天樹院)と、彼女の娘勝が嫁いだ岡山藩池田光政との関係から、徳川家内における千の位置づけを行った。言うまでもないが、徳川家を始めとした武家社会の中で女性も男性同様に大事な構成要員であり、女性へのまなざしが必要である。千は大坂の陣で夫秀頼が死去すると、譜代大名本多忠政の嫡男忠刻ただときへ再稼して、一男一女に恵まれた。しかし、元和七年(一六二一)には、嫡男幸千代が死去し、寛永三年(一六二六)には忠刻まで死去してしまった。その後、前田光高との再々縁も噂されたが、千は独身を貫き、以後は、家光の子綱重を養育したりしたが、一人娘勝が嫁いだ岡山藩池田家との関係を深めていた。

 最後に、本書では徳川公儀の「家」的側面について取り組めなかったことも多い。しかし、なるべく従来とは異なる歴史を描き出すことを心掛けた。徳川公儀研究の第一歩になればと考えるからである。

(のぐち ともたか・昭和女子大学人間文化学部准教授) 


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