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金時豆を煮ながら

子どものころは煮豆など甘いだけでちっともおいしくない、ごはんに甘いものってなんで、と思っていたのに、いつしか自然と豆を煮るようになった。

コトコト煮ながら、ある人のことを思う。このあいだ、大切に思っていた人が急に空に連れていかれてしまった。

どんな人ともいつかはお別れが来るとわかってはいても、どこかでそれは今じゃない明日じゃないと確信に近い思いを持っていて、なのにこうして突然事態が変わると、それがいかに根拠のないことだったのか思い知らされる。

人の死はつらい。

シンプルに、もう二度と会えないからだ。苦しまなくてよかったねとかそういう運命だったんだよとか慰めの言葉はたくさんあっても、会えなくなるからたださみしいという気持ちを癒す方法はない。

わたしが大きな悲しみとともに生きるようになって今年で三年、次はまわりの誰が亡くなっても気持ちが保てるように、人は産まれたら死ぬのだとか、死は生きるものすべての運命だとか、出会えないより出会えた人生でよかったとかいろんな言葉で死を肯定しようとしてきたはずだったのに、全然だめだった。やっぱり悲しいし、ちいさな穴がお腹のうえのあたりにぽつんとあいた。

いつもは仕舞い込んでおかないとと心を頑丈な箱に入れて持ち歩いているのに、原稿のデータを添付して送信ボタンを押したあと、子どもを送った保育園からの帰り道を自転車で走っているとき、夕飯の片づけを終えてキッチンの電気のひもをひっぱったあと、何気なさすぎる一日のなかで一瞬、箱があく。心は液体や個体ではなく気体のようなものだから、慌てて閉じてもそのちょっとした隙間からふわっとこぼれ、ぐるぐるとわたしを包む。

どうしてこんなことに。
どうしてこんなことに。

気持ちが涙になって流れ、流れるだけ流れてカラカラになっても、水を飲むとまた涙になる。

ママ…?

ちいさな声が、箱がもうあかないようにとバンドエイドを貼ってくれる。

ママ、ちんじゃったのはもうしょうがないよ。

そうだね。

ちんじゃった人が空にいるっていうのはほんとうなのかなあ。

どうなのかな。

ママは1000歳まで生きてほしい。

そんなに生きられるかな。

スージーは1050歳なんだよ。生きれるよ。

煮豆が鍋のなかでコトコトと煮えている。やりすぎると皮が破けちゃうからねって聞いたのに、うっかり破いてしまった。

追い砂糖をさらさらふりかけて、静かに火を止める。1000歳かあ。あと958年あるなら、そのころには煮豆ももっとじょうずに炊けるようになっているかもしれない。

空に行ったら、とりあえず豆を煮よう。

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