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高校時代に置いてきた種を42歳になった今、まくことにした。

最近、はじめたことがあります。
それは、茶道。

この25年のあいだ、茶道に触れる機会はちょこちょこあったけれど、きちんと指導を受けるのは四半世紀ぶりで、何年ぶりなのか今計算してみて卒倒したところ。

25年前、わたしは高校で茶道を習っていたのでした。お茶とお花、お琴が3年間学べるというのに惹かれてその学校を選んだところもあるのだが、お花はちょっと気持ちと折り合いがつかず(どうしても針金で花を曲げたり茎を短く切るのが嫌で)先生とたびたびけんかし、お琴は結構好きだったけどきれいに伸ばした爪を切るのが嫌で、気持ちの中に残ったのは茶道だった。

でも、わたしは高校時代にひとつかけがえない大きなものを失い、その喪失感から抜け出せず高校にもほとんど行かなくなったし、授業もほぼ寝ていたし、もちろん茶道からも気持ちは離れた。

それなのに今さら何がしたいか考えたときに戻ってきたのは、めちゃくちゃ中途半端にしかやらなかった茶道を学び直したいという気持ちだった。

人生って不思議なもんだよ。
どうしようもない学生生活だったのに、その種を25年後に拾い上げることが、あるんだもんね。

そういうわけで先日初釜に出かけたのですが、正式な場所でなんと25年ぶりにお茶をたてました。

帛紗の捌きかた…いや、そんなことより畳の歩き方、柄杓の持ち方…!ひゃー!どうしよう!ってパニックになりかけたけど、人間の脳みそってすごいもので、必要なときに必要な引き出しがあくんだね。

埃がかぶっていてギシギシいうその引き出しを引っ張ったら、薄くてよく読めないながらも当時の記録がでてきて、なんとなくやれた。

その頃はさあ、別にどう畳んだっていいじゃん、とか、まあ思っていたわけですよ。お菓子がでない日の授業はつまんないなあ、とか。

でも、つるつるした帛紗は好きだった。水屋の寒さが好きだった。懐紙のうえにお菓子をのせる所作が好きだった。襖のあけ方が好きだった。

嫌いにはならなかったから、きっとまたやろうと思えたのだ。

むかし娘がバイオリンを習っていたころ、練習したがらないことを先生に嘆いたことがある。そうしたら先生はこう言った。

「練習がいやなら、この教室に来たときだけ弾けばいいのよ。無理にさせて一度嫌いになってしまったら、もう二度とバイオリンを持たないことだってある。音を聞くだけで嫌な気持ちになることもある。そうなっちゃったら悲しいのよ」

ほんとだよね。

嫌いになったものは、なかなかまた好きにはなれない。でも疎遠になってしまっただけなら、こうしてまた出会う機会を持つかもしれない。

少しずつ、置いてきた種を手のなかに集めよう。きっとそれがまた人生を、景色を、豊かにしてくれるよね。

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