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ただの休みだったお盆が誰かを想う瞬間になる

お盆が終わった。

東京では7月に行うところが多く、7月13日の朝は外へ出るなり煙の新しい匂いがする。8月にするうちもある。自転車に乗って子どもを送りながら、いろんな玄関先に残る灰をながめ、あのうちには誰が帰ってくるのだろうと考える。

その匂いに、むかしむかし祖父母の家で茄子に割り箸を刺した記憶と、仏壇に次々に届く菓子折りの記憶が重なる。祖母は食卓いっぱいにご馳走をつくるのに、誰もこない。お祝いのようなのにどこか違う、不思議な景色だった。

茄子やきゅうりでつくった馬に乗って亡くなった人が帰ってくるんだ、こうして火を焚いて、ここがうちだってわかるようにするんだと言われても、子どもにとっては「ふーん」という話でしかない。わたしは菓子折りをいつ開けてもらえるのか、そちらの方が気になったが、それをそのまま口にするほど子どもでもなかったから、そういう一連のならわしに静かに参加し、ふーんと思っていた。お盆はそんな日だった。

社会人になってからのお盆は面倒な期間でしかなかった。お盆があるおかげで年末進行並みにスケジュールがぎゅっとなり、クライアントは休みなのにわたしはお盆前に渡された仕事をお盆明けに出さなければならず、舌打ちしてビールを呑みながら仕事していた。電車はがらがらで、それだけが心地よかった。

実家の母はお盆に何かする人ではなかったし、祖父母とも疎遠になり、鬼灯を見てもああお盆だなということすら感じなくなっていた。

それが2019年の夏、迎え火をはじめて自分で焚いた。

どうやったらいいのか細かく思い出せなかったけれど、ただただ火を焚きたかった。インターネットで正しいやり方を調べるんじゃなく、自分の中にかろうじて残っているお盆をしたかった。彼が、向こうに行ってしまったからだった。

茄子に割り箸を刺していると、子どもたちが笑って近寄ってきた。どうしちゃったのママ、という顔である。馬をつくるんだよ、これに乗って天国に行った人が戻ってくるんだよ。

祖母から聞いた言葉をそっくり自分が言うようになるとは驚いた。あのとき祖母は、こういう気持ちだったのだろうか。こんなふうにすこし切なく、準備を手伝ってくれる子どもがすこし微笑ましく、あまり深くあれこれ聞かないでほしいと心の扉をすこししめて、用意してたんだろうか。

人が亡くなったあとのならわしはすごい。初七日があり、ニ七日、三七日と進んで七七日がやってくる。新盆があり、一周忌があり、生きている者にはすこしずつ時間が経つのですよと、あの日からこのくらい経ちましたよと教えてくれる。そのひとつひとつの儀式を終えるたび、行き場を失った心の置き場所が僅かに空く。落ち着こうとしている自分にがっかりするような気持ちにもなるけれど、ならわしがそのどうにもならなさの衝立になってくれる。

ひいては七七日まで生きられました、ということなのかもしれない。あの日は狂ってしまいそうになるほどつらくて、どんな言葉でも綴れないほど痛くて痛くて敵いませんでしたが、四七日、五七日と数えることでなんとかそこまで生きられました、という支えになっていた気がする。

おがらに火をつけると、煙が静かに高く上がった。急に子どもが「ここだよーー!」と大きな声で叫んだ。びっくりしていると、「わかるかなあ?煙、見えるかなあ」と言う。どうなのかな。こんなことをしておきながらわたしは死後の世界を信じていないので、気持ちは複雑だ。でも、迎え火をしてからの数日は気持ちが軽かった。きっとこの世に遊びに来てくれているという可笑しな思いこみが楽しかった。

だからつらいのは送り火だ。ずっとここにいてもらうことはできないらしい。忘れたふりをしようかなと思ったけれど、夕方ほかの家から煙があがっているのを目にしてしまって諦めた。

なぜ迎え火などしてしまったのだろう。迎えなければ送ることもなかったのに、出会わなければ別れることもなかったのに。

ふたたびおがらに火を灯し、でも後悔はしていないとたしかめる。

さようなら。
また来年。

祖母もそう言ったっけ。
煙に乗ってあの人はどこへ行ったのか。空の上の上の上にある天国という幻に、すこし頼る。今年も火を焚いて迎え、火を焚いて別れた。

さようなら。
また来年。




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