金精楼昔がたり
前回の記事「一本柳」でふれた『金精楼』という料亭のこと。
これは、岩内町の歴史資料の中で何度か出てくるので、詳しく綴っていこうと思う。
やま久 金精楼 吉田嘉蔵
文政7年9月北海道渡嶋國上磯郡當別村に生る父を勘五郎の後継ぎ。文政9年、父勘五郎が病死(当時3歳の頃)、母と共に函館に移住し密かに生計を立て、天保7年12歳という年齢で函館港の菓子商某方に弟子入り、その7年後に退職し年々各地に巡商し明治2年春頃、岩内港に来て蕎麦屋を開業。その当時、飲食店の営業者が少なかったこともあり、大いに流行して利益を得た。
後年、新潟縣中蒲原郡遠藤村の人小宮山某の次男留吉を養子にすると、業務に専念し親孝行な息子という評判もあり家業を統治するまでになる。
明治22年5月橘町23番地に移り料理店を開業、明治23年9月の岩内大火で家財を失うことになったが、明治24年春に橘町81番地に借家して同業に就く。
矢印:橘町23番地
明治39年岩内街番地の地図 / 岩内町郷土館より
☆:橘町81番地
明治26年7月 御鉾内町193番地(現:大橋家具店隣)に高棲を新築して営業を拡張し客間12室。最も広い76畳。器具(家具)も東京・新潟など各地から、購入し池に囲まれた風情はなかなかのものだったそうだ。
金精楼 本間喜助 / 最近之岩宇 昭和2年発行
岩内町郷土館より
明治33年には、経営が本間喜助に変わり、戦時中は茅沼炭鉱に身売りされた後、取り壊しになった。
岩内町に大きな鰊御殿が無い理由も、明治初期からこうした商人が岩内町に移住してきて、この様な料亭が金精楼の他にもあり、鰊漁の時期に滞在出来る場所があったからということ。
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