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蒲鉾製造の嚆矢

明治32年 吉田 音吉、料理人 川崎弥助、共同して蒲鉾製造を始める。
岩内町史で、この文章を見つけたのは。10年前のことだった…。

【没後80年 初代 吉田 音吉物語】
慶應元年(1865年) 新潟県雑太郡沢根村(現:佐渡)の生まれで、明治24年に渡道して岩内に居を定めた。音吉氏、26歳の頃。

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その翌年、イワさんと入籍して…どうやら、入籍をするきっかけで岩内町に戸籍を移した様だ。
そして、最初に住んでいた場所が『金精楼』があった場所だったのです。

音吉氏の父が吉蔵というので、これは!金精楼の経営者だったのか?!と、金精楼のことを調べると偶然にも同姓同名だったということと、共同で蒲鉾の製造をした料理人は金精楼で料理人だった川崎さんだということが分かったのです。
そして、音吉氏はこの近辺で計6回程の住所変更をしている記録がありました。

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1.橘町81番地    (明治24年〜)明治26年
2.御鉾内58番地   明治26年
3.橘町77番地    明治34年
4.橘町79番地    大正10年
5.橘町59番地    大正10年
6.橘町58番地

橘町58番地は、大正11年(1922年)、この年から現在の場所となるのですが、大正時代は、支店もあった。

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吉田 イワ(音吉の妻)の葬儀の写真 / 大正14年。  施主 吉田 音吉

昭和29年の岩内大火で、家屋諸々被害にあっているので昔の写真はほぼ無く、唯一の貴重な写真。一番奥に写っているのが音吉さん。

金精楼と繋がりがあった、音吉氏。
独立することになった転機は、明治33年に金精楼が吉田 嘉蔵から本間 喜助氏へと経営者が変わったことも考えられる。

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明治32年 蒲鉾製造をはじめた音吉氏が作ったものは「角焼」という焼き蒲鉾のことで、魚をすり身にして型に詰めてから焼きあげるというもの。

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すり身を型に入れてから、焼き台でゆっくりと両面を焼いていく。
一番上にあるのが1つ約10㎏ある「重石」というもので、この中には石が入っているのです。この重石、明治後半から代々受け継ぎながら未だ現役で使っているのですが、昭和29年の岩内大火で4代目 達男さんが当時は貴重だった「鬼すだれ」を守る為に、とっさに大きな水槽の中に入れて、この重石で沈めた。
しかし、鬼すだれは残らず…この重石だけが岩内大火をくぐり抜けたという。

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これが創業当時からの「角焼」

大正11年(1922年)には、蒲鉾製造最盛を極め。組合員32名になった。
大正7年 古館栄助が動力を使用して大量生産に至り、大正9年には全業者が動力を据付け、大正11年最盛を極めたが…価格競争を背景に「猫またぎ」と云われるほどの品が出回り「岩内の蒲鉾」の歴史が衰退することになった。
昭和5年以後、6軒となる。

この時、音吉氏は…他の商品と差別化する為に「カネタ」という焼印を付けた。

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今は真空包装で、当時あった焼印は無いけれど。
初代 音吉氏から代々受け継いだ蒲鉾の製造方法は現代でも繋がっているのです。

カネタ吉田蒲鉾店
https://www.kanetayoshidakamabokoten.com/


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