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岩内の鰊番屋のこと

北海道岩内町は積丹半島(西海岸)の付け根にある港町。

「岩内はニシンで栄えた町」で、ニシン場の親方が社会貢献をしたことで町が発展しました。

ニシンで栄えた町ならではの「鰊番屋」が存在するはずですが…。想像している番屋は岩内町には「無い」のです。

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鰊御殿とまり
明治27年(1884年)に親方の川村慶次郎氏によって、漁場を経営する親方と雇った漁夫たちが共同生活をするために、独特の構造で建てられた。
http://www.vill.tomari.hokkaido.jp/kankoevent/spot/3938.html

まだ、場所請負人制度があった頃。
アブシタ(雷電から少し行ったところ)〜臼別(泊村)までが「岩内場所」だったのですが、弁財船が通る理由で、岩内港のところでの建網でのニシン漁は禁止されていました。
https://youtu.be/Nrhpq3GencM  

ニシンをとる為の漁には「建網」と「刺網」があります。

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建網
定置網のひとつで、一網(1ヶ統) 当たり、食事などの世話をする賄い婦も入れれば35名程度の人が必要でした。
網元(漁業主=親方)は平均2ヶ統から3ヶ統の網を張る場所を持っていました。
ニシン漁の親方の中で、10ヶ統を持つ大親方もいました。

こんなに人手が必要なのに、鰊番屋が無い理由は…。
岩内には、人口があって番屋がなくてもよかったのです。

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天保6年(1837年) から数年、東北地方では大凶作の年が続きます。その為、食料を求めて多くの人たち(農民)が北海道の西海岸を北上してきます。
当時、積丹半島から北は女性や子どもの往来は禁止されていました。
平地があった岩内に多くの人が住み始めます。岩内町は一気に人口が急増し、市街地が形成されました。
【神威岬】
https://goo.gl/maps/x3GjfKUM278ze2X2A

明治5年の岩内町の地図を見ると、大きな鰊番屋を建てる場所もなかったのでは?と思うくらいです。ニシン漁の時期に、地方から来る船頭は宿泊施設で寝泊りしていた様です。

天明2年(1782年)  日本人    278人
文化7年(1810年)  日本人    339人
文政2年(1817年)  日本人    250人
天保6年(1835年)  日本人 1,724人
嘉永6年(1853年)  日本人 1,904人   アイヌ 56人
安政元年(1854年)日本人 1,806人   アイヌ 56人
安政5年(1858年)  日本人 1,800人   アイヌ 59人
【岩内場所の人口】

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国道229号線(岩内町⇔寿都町)
この道も江戸時代からある道で、ニシン漁が行われていた場所でもあり、島野・敷島内方面には、今もその名残りを見ることが出来ます。

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この通りにある、枝元治療院さんは築100年ちょっとの歴史ある住宅で、漁業を営む昔ながらの住まいをリフォームして開業しています。
屋根の骨組が、「八方方杖合掌組工法」になっていて、鰊御殿とまりにある旧武井邸の屋根の骨組と同じでした。大きな神棚があったり、番屋だったという雰囲気が伝わります。

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さらに、寿都町方面に向かうとレンガで建てられた蔵があります。
この蔵に隣接している家屋は、漁場経営をしていました。岩内町郷土館にある国産最古のリードオルガンがあった場所だったのです。

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このオルガンは、長く所蔵していた「帰厚院」から岩内町郷土館に寄贈されました。
明治38年(1905年)に横浜で製造された「西川オルガン」で、岩内町指定有形文化財になっています。

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かなっぺの「まちの歴史散歩」続く…。

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