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【資本主義をチートする17】ギグ・エコノミーが儲からない理由はシンプルだ。

 ネット時代、デジタル時代の「資本主義の新たなスタイル」として、

ギグ・エコノミー

とやらが、注目されたり、話題になっているが、はっきり言えば、ギグ・エコノミーに参加する人は

構造的に儲からない

と断言できる。

 いやいや、ちょっと言い方に問題があるかもしれない。ギグ・エコノミーの運営者は儲かる。しかし、そこでギグ・ワークを行う人は、儲からない、と言えるだろう。


 話はすっ飛ぶが、「県民共済」をご存知だろうか。各県に「県民共済」という保険みたいなものがあって、「掛金の安い生命保険、医療保険、災害保険」のような役割を果たしているものだ。

 県民共済はめちゃくちゃ良心的で、組合員からお金を集めて、1年間で貯まったお金を、被害にあった人に補償という形で支払いをする。そこで、残金が出たら、そのお金を組合員に戻すのである。

 すごくない?

 営利企業であれば、利益が残れば内部留保としてどんどん貯めてゆくのだが、組合員同士の相互扶助である「共済」だから、その都度精算するしくみなのである。

 だから、この制度、おすすめではあるのだが、資本主義チート術から見れば、ツボはそこじゃない。

 最後にお金を精算して組合員に戻すときに、どうしても共済そのものが「いただかなくてはいけないお金」というのが発生する。それは、職員の給料であったり、事務手続きの費用である。それはかならず、集めたお金からは最初にしょっ引かれて、横へ取りおきされるわけだ。

 そして、残ったお金を補償の形であったり、残金の形であったり、組合員同士で「わけあっている」のである。


 このしくみ、実はヤクザのバクチとまったく同じなのである。

 助け合いの「共済」事業と、ヤクザの博打を一緒にするな!と思うかもしれないが、一緒なんだから仕方がない。

 ヨシイエはまっさきに「県民共済の職員になりたいなあ!」と思ったりする。システムがある以上、自分たちの取り分は先によっこいしょされるのだから、安泰ではないか。

 パチンコの貸し玉料にしても、バクチのテラ銭にしても、全部おなじで、

「参加者から一定のお金を集めて、ショバ代(手数料)を差っ引いて、そのお金を好きなように再分配する」

のがバクチのシステムだから、胴元は常にお金を損しないように出来ている。

 ギグ・エコノミーの運営会社も同じで、彼らウーパールーパーみたいな会社もまったく同様に、

「彼らは実際の配送業務を行わず、情報のみを下流に流して、経費だけを最初に差っ引く」

ということをしているだけなのだ。

 現場の状況がどうとか、配送者の個人事情とかはどうでもよいのである。


 今流行のクラウドソーシングも同じ理屈で、クラウドワーカーと依頼者の間を取り持って、その間の中抜きをするだけで、自分たちは1円でライティングしたりしない。

 言っておくが、これを「悪だ」と言ってるわけではない。それを言えば、このnoteだって同じしくみで、有料noteは、「運営者は一切何も書かずに手数料を差っ引く」のだから、noteですら

実はショバ代・テラ銭

なのである。プラットフォームとはそういうものなのだ。そして、わたくしヨシイエは、ココナラさんであれnoteさんであれ、多いに賛同しながら活用させていただいている次第である。

 感謝感激雨あられ。いつもお世話になっております。

 余談だが、ショバ代とは「場所代」のことで、賭場を開く場所を貸している場所代のことである。 またテラ銭とは「寺銭」のことで、昔はお寺とか神社の境内で市が開かれたり、催し物が開催されたりしたので、やっぱり寺が「寄付」と称して場所代をせしめていたのである。


 さて、ギグワークが儲からない理由はシンプルだ、とタイトルにも書いた。それを言ってしまえば、

noteは儲からない

みたいになってしまい、さすがのヨシイエだってモゴモゴ言わなくてはいけないのだが、ここは少し視点を改めてほしい。

 ユーザーから見ての

 noteは儲からない/noteは儲かる

という2つの言葉は、これまで最初のほうに説明したとおり、どちらも正しい。

■ 生活が成り立つほどの収入になるか

と言えば、大半の人はならないだろう。だから「めっちゃ儲かるものではない」と言える。

■ 書いたコストに対して、利益がでるか

という意味ならば、コンテンツは継続的に利益を生むのだから、noteさんが手数料を取ったとしても、十分に儲かると言える。


 そうなのだ。視点の切り替えで一番重要なのは、実は

ギグ・エコノミーは生活を成り立たせられるだけの収入になるのか

という問題なのである。

 シンプルに考えれば、これは「単価」だけの話に過ぎない。


 ヨシイエさんの本業は、建築・建設業界のすみっこ暮らしであるから、建築職人さんと話をすることがたまにある。

 彼らの場合、仮に日当2万円が相場だとすれば、

■ 誰かの応援部隊としてよそに仕事に行くときは、日当2万3千円

になるし、

■ 独り立ちしている職人が、誰かの常雇いになれば、日当1万8千円でも我慢する

ということが起きる。

 災害時には、日当3万を請求する職人もいるが、それはちょっと良心に反するかもしれないし、しないかもしれない。


 つまり、仕事の継続性、反復性によって、単価が変動するわけだ。

 ギグ・エコノミーはこの隙間をついている。本来ならば、ウーパールーパーなどのギグワークは「単発的仕事」がベースになっている。それをIT情報ネットワークによって集積して、「単発をある程度繰り返す」ことによって「継続性」を演出しているのである。


だから

■ 依頼主からは単発の契約として高い単価を貰い

■ ギグワーカーには、継続して(つぎつぎに)働かせることで安い単価で雇う

ということをやっているのである。この単価の差を抜くわけである。


 もし、そもそも継続した依頼がある程度まとまって発生する業務なのであれば、ギグエコノミーシステムを利用したりしない。タクシー会社や、ピザの配達のように、

「自社で社員を雇ったほうが、確実で安く雇える」

からである。それなのに、なぜギグエコノミーシステムが生まれて来たかといえば、

「継続性があまりなく、高単価だけれど単発で仕事を請けてくれたらうれしい」

というニーズがあるからである。

 そのスキマをついてくるのが、ギグエコノミーなのである。


ITを活用して、「単発の仕事を集積しているように見せかけられる」のがポイントだ。もし、単発であっても、個人で請けることができればそちらのほうがはるかに単価はよくなる。しかし、個人ではそれができないから、

搾取される(差額を抜かれる)

ハメに陥るのである。


 さて、結論だ。ギグワークが、実は結果的に搾取されるだけであり、

「時間を選べて自由に働ける」

というメリットがありつつも、仮にその単価が「通常の労働よりもかなり割高でない」とすれば、

「8時間労働を自動的にやって、一日8千円もらうのと」

「ギグワークで細分化された6時間を働いて6千円しかもらえない」

のであれば、

もう、つべこべ言わずに普通に働けよ!

ということになるのだ。


 仮に、ちょっとだけギグワークのほうが単価が高いとしよう。

「6時間で8千円もらえる」(時給1333円)

のだったらお得だろうか。残り2時間の待機ロスや、移動ロスがあるのであれば、別にどっちでもいいし、好きにすればいいと思う。

「びっちり埋まって8時間で10664円もらえた」

としよう。

おまえ自由な時間はどこへ行ったんだよ!

とつっこむのは失礼だろうか?


 よーく考えると、「自由な時間と生活が成り立つこと」をバランスよく成立させようとすれば、

「ギグワークのほうが、単価が倍」

くらいじゃないと幸せは得られないことがわかってくるだろう。

「ちょっと待機ロスや、移動ロスがあるけれど、実働4時間で8千円もらえた」

のであれば、そりゃあ、ライフスタイルとの間で、それを選ぶのもかまわないレベルになってくるだろう。


 しかし、ここで、本当に自由な時間と高い単価を手に入れられる方法を少しだけ伝授しておこう。「そうなりたい!」と思うか、「そこまでは頑張らなくてもいい」と思うかは別の話だが、事実としての「自由と高給」はたしかに存在する。

 それは、偉くなることだ。


 会社の役員にまで上り詰めると、別に出勤しなくても給料はもらえる。社外取締役とか、監査役なんて本当に取り締まっているのか、監査してるのか怪しいくらいだ。そもそも会社内で、取締りを受けた記憶もない。誰か社内で違反切符を切られたり、社外取締役に叱られたことがあるやつは、手を上げてほしいくらいである。

 そんなやつは、たぶんいない。


 ヨシイエが役員になった時、うちの会社の大会長が、ヨシイエにニッコリ笑って言ったことがある。

「あんたな、あんたがなんもキバってやらんでもええねん。必要があったら外注でもなんでも使って、あんたが動かんでもええようにしたらええねん。そしたら自由な時間ができるやろ。楽したらええ」

 会長にしては何気ない一言だったのかもしれないが、それまで年収300万円の底辺労働者だったヨシイエさんから見れば、その言葉は

 びっくり仰天、世界が変わるような発想

であった。

 つまり、経営者側から見れば、経営者サイドの存在意義は、「労働にあけくれること」なんかではないのである。そこは「労働者」に任せておいて、自分はもっと価値のある仕事をせよ、ということなのだ。

 労働者を使う側になるというのは、そういう発想に立つことであったのである。


 経営者になるということは、いろいろとややこしいこともあるし、責任もある。まず第一に従業員の安全安心を気にかけながら、常に心くばりをせねばならないこともある。

 しかし、時間は自由に使える。今、これに拘束されて身動きとれない、なんて仕事はない。そんなものは一切ない。

 たとえば、取引先との商談があったとしよう。一般の営業マンなら相手に合わせて時間を拘束されるかもしれないが、偉い者同士だったら、なんぼでも調整は効く。ごめん!で済む。電話一本でもいいし、なんならLINEでもOKという相手もいる。

 お互いに、それなりの立場同士だからだ。


 ヨシイエさんはゴルフをやらないが、それでも問題ない。業界人同士からみても、「あの人はゴルフやらないもんね」で済む。別に土日にバッグかついで出かけなくてもかまわない。

 「あの人はタバコ吸わないもんね」

ぐらいのノリと同じである。それは、お互いに偉いからだ。


 そういうことを知ってしまうと、偉いことが辞められなくなり、抜けられなくなる。そして、中途半端に偉くなることで、60歳ぐらいには、他では通用しないダメおやじが出来上がる。

 そういうことも見えているから、これまで紹介してきたように、ヨシイエはまったく別のジャンルで、いちから自分のライフワークを構築していると言ってよい。

 本業もまた、世を忍ぶ仮の姿である、というわけだ。


 今日のまとめである。ギグエコノミーは儲からない。出世すれば儲かる。

 もう若い人にとってはすでに古典になってしまったかもしれないが

「踊る大捜査線」

というフジテレビのシリーズは、まさにそういうことがテーマだった。

 いわば最底辺ワーカーの青島刑事と、警察権力のトップへ上りつめようとする室井警視の対比を通して、

「何かを成し遂げるには、偉くならなくてはならない」

ということの前で、登場人物たちがもがき苦しむ話だったのである。

 「儲かるためには、偉くなる方が早い」かもしれないことも、忘れないでおこう。





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