見出し画像

小室さんへのもやもやがスッキリした件


 日本中を心配の渦に巻き込んで、一般人である小室さん夫妻がご結婚なさったことは、それはそれでハッピーウエディングであり、おめでたいことだと思う。

 ところが、そこに至るまでのあれやこれやが、あまりにもお金にまつわりすぎて、それをメディアから見聞きさせられる一般人である僕たち私たちもまた、ハラハラドキドキの連続であったことは、正直否めない。

 そんなおり、別の小室さんについてもまた、「歌唱印税をTさんにまったく支払っていないらしい」というお金にまつわる話が飛び出してきて、さらにハラハラドキドキの毎日が続いている。

 次はどこの小室さんが、どんな暴露話に晒されるのか、気が気でならないところである。


 さて、僕たち私たちは、なぜ小室さん夫妻のことを、これほどまでに気に病むのであろうか。あるいは、小室さん夫妻から、どんな言葉を欲しがっているのだろうか?

 一連の話は、すべて「お金にまつわる問題」である。一般的に僕たち私たち日本人は、

「お金に関してだけは、きちんとしておかなくてはならない」

という一般常識のようなものに囚われているため、お母様やご本人が関係しているであろう「ご借金」のお話や、「休業補償」などというお金のあり方について、

「きちんとした説明が欲しい」

と思っていることは確かだろう。

 それも、皇室の方とご結婚なさるような、国家国民にとっては「比較的大きな出来事」なのであるから、事前にきちんとした説明を求めるのは、たとえこちらがただの一般ピープルである庶民であり、お二人とはほとんど利害関係がないとしても、それくらいは許されていいのではないか?と考えてしまうこともまた、やぶさかではなかろう。


 ところがである。そうした大多数の日本国民のぼんやりとした願いとは違って、小室さん夫妻は結果的にはほとんど何も語らずに、ご結婚してしまった。

 そのため、無事結婚が済んだ今となっても、あれこれ意見が生じて、一向に収まる気配がないというわけだ。


さて、今回の一連の騒動について、

「きちんとした説明が欲しい」

というのが、”一般常識”とやらが発した、最低限の希望であり、願いであったというところまでは、とくに異論はないと思う。

 かくいう私個人も、この「お金についてはきちんとしなければならない」という「一般常識」なるものに基づいて、小室さん本人、あるいは親子は、一定の「きちんとした説明」をするべきなのだろうな、と漠然と思っていた。

 するべきというか、そうするのが、一般常識とやらに照らし合わせた上での、望ましい態度なのだろう、と、そう思っていたわけだ。


 ところがである。


 ツイッターで流れてきたとある一文を見て、わたくしヨシイエは閃いてしまったのである。そうか!そういうことか!と。

 ユーレカ!

 その内容は、小室さんが深ーく関わっている法曹関係の常識、もっと平たく言えば

「弁護士の常識」

にまつわるもので、

”弁護士は正義の味方ではなく、依頼者の味方である”

という内容の一文だった。

 これは、法曹界においては、イロハのイのような、至極当たり前で、当然の内容である。

だから弁護士は、被疑者が悪人であったとしても一生懸命弁護するし、依頼者が不利にならないように、一生懸命画策する。それが仕事であり、それはけして非難されるようなことではない。

 これは”法曹界の常識”である。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 かくいう私も、裁判実務に何度も携わったことがあり、ぶっちゃけ弁護士どころか、裁判所すら「正義の味方」ではない事実をなんども突きつけられてきた。裁判所は、公正公平を追求する場ではなく、「落としどころ」を探る場なので、落としどころの着地点によっては、弱者の利が「かさ増し」されていることがよくあるのだ。

 天秤棒は水平かもしれないが、そこに載せられている重りの中身は、右と左でまったく違うのが、法曹界の常識なのだった。


 恥ずかしいことに、ヨシイエはこの「常識」をすっかり忘れていたのである。


 さて、小室さんだ。

 彼はアメリカでの弁護士を目指している法曹界の住人である。残念なことに今回の試験には落ちてしまったらしいが、一定の法曹的常識を持っている人間だと推定して、差し支えないだろう。

 しかし、ヨシイエは彼が「法曹界の常識」を持つ人間であることをすっかり見逃していて、「一般の常識」のものさしで彼らの行動を読み取っていたことを恥じたのである。


 いったいどういうことか?

 「小室さんは弁護士として行動しており、その依頼者は実母であり、また婚約者である」

と解釈すれば、これまでの彼の行動パターンがすべてスッキリ明確になるのだ。


 弁護活動においては、依頼者に不利になることは一切語らなくてもよい。そもそも被疑者には「黙秘権」まであるので、言いたくないことは言わなくていいのだ。

 小室さんが「弁護士」の動きをしていたとすれば、その行動は的確で正確である。

 事前に28ページにも渡る準備書面を提出し、そこに弁護側証言をびっしりと書き込んでいる。そこに依頼者にとって不利な話は記載されておらず、諸問題に「解決の意志がある」ことを示している。

 結婚の折には、「口頭弁論」まで行っている。妻と二人で、弁護側の主張をしっかり行ったわけである。

 その時、「答えたくない質問には答えなくていい」のもまた、一部の人にとっては悔しいかもしれないが、「正しい」だろうと推定される。

 なぜなら、その場には「検察官」もいなければ「裁判官」もいないからだ。

 検察側の尋問がないのだから、最初から答えなくていいのである。


==========


 と、ここまで書くと、これを読んだ方の中には、

「いや、メディアの記者が検察官に相当し、我々国民が裁判官に相当するのではないか?」

と思う人もいるかもしれない。ところが、実際には記者は検察官のように法的な権限など一切持っていないし、我々国民も小室さん夫妻の処遇を決定する権限など一切持っていない。

 我々が仮に何かを総意で提議したとしても、小室さん夫妻にそれを執行することは完全に不可能である。なぜなら最初から記者にも国民にも、二人(あるいは実母を交えて三人)に対しての執行権を何一つ持っていないからである。

 権限がないものはただの人だ。それが法治国家の基盤でもある。

 つまり、記者であれ僕たち私たちであれ、最初から最後までこの裁判所における

「傍聴人」

に過ぎなかったのだ。

 だから、弁護人からの準備書面を読まされ、口頭弁論を聴かされてただぽっかーんと口を開けているだけだ、ということが判明したのである!


 こうして考えると、僕たち私たちは「一般的常識」の物差しで一連の騒動を捉えているのに対して、小室さんたちは「法曹的常識」の物差しで行動していことがはっきりする。

 それは「かみ合わない」のだが、別に彼らからすれば「間違ってはいない」のが、これまでのもやもやの正体だったのではないだろうか。


 そうすると、この一連の騒動には、まだまだたくさんの「役者が欠けている」ことがわかる。

 まず、検察官がいない。裁判官もいない。そして、参考人や証人も招致されていない。最初から、ほとんどの役者が欠けている。


 裁判の法廷に「被告」と「傍聴人」だけがただいるのが、現在の状況であるから、そんな状況では、被告は一切何も言う必要はない。


 だったら、この問題をしっかり明らかにして、「ちゃんと説明する」ためには、舞台に役者が出揃う必要があるのである。

 参考人、あるいは証人である元婚約者も会見を開いてみればどうだろう?

 (これで、原告と被告が取り合えず揃う)

 小室さんの母に詐欺的な問題がある可能性が懸念されるのであれば、まさしく検察官と裁判官にご登場願いたい。警察の捜査だって、現時点では一切がっさい欠損している。

 あるいは、小室さんの母だって、重要なる参考人である。利害関係者と言ってもよいだろう。ぜひ召喚したい。


 個人的には、これらすべての役者が出揃った状態で、もう少し物語の続きを見てみたい気もするが、それどころか舞台そのものがセッティングすらされていないのだから、この話はこれで立ち消えになるかもしれないな、とも思う。


 まあ、それはそれとして、小室さんが「弁護士として」あの若さでここまでやり遂げたのは、まあ凄いことだな、と思わず納得してしまった次第だ。

(「一般人として・・・」については、あえて何も言及しないが)


 お二人がお幸せであることを祈っています。





 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?