見出し画像

【資本主義をチートする02】金持ちになる方法は、実はシンプルだ

 

 この資本主義社会に生きている者は、ほとんどすべてが「お金持ちになりたいなあ」と思っているはずだ。たぶん。ところが、たいていの若者はお金持ちではなく、今では年収300万円台とか年収200万円台の人がたくさんいるハメになってしまった。少し前までは「一億総中流」なんて言いながら、みんながそれなりの給料をもらって満足した生活を送れていたのだけれど。

 前回の「はじめに」に相当する部分で、わたくし吉家は「年収300万円から所得倍増」することをテーマに設定した。実際、今のヨシイエは年収600万円超の一応かりそめなる「会社役員」なのだが、10年くらいで本当に所得が倍増したことになる。

 そこに至るまでのプロセスは、それほどしんどくなかった。年収300万から600万くらいに上げる程度であれば、失うものもほとんどないし、血のにじむような努力も必要ではないと思う。ちょっとした知恵と実行力があれば、所得倍増は難しいことではない。そう!お金持ちになるということは、実はシンプルなことなのだ。

 前回のたとえとして、産業再生機構の偉い人たちにとって「仕事を頑張る」の意味は「よい商品を届ける」とか「サービスしちゃう」とかではなく、「底値で株を入手して上場して売り抜ける」ということであったお話をしたと思う。つまりは、「資本主義社会でチートする」には、そういう視点の転換が必要であって、それがわかってくれば、「お金を稼ぐ、増やすのはそれほど苦痛ではない」ということも見えてくるってわけだ。


 しょっぱなから大事なことを書いてゆくとすれば、「お金持ちになる」ということは、「努力を積み上げる」ということとは少し違う、ということを知っておいてほしい。これはけして逆に「ズルをする」とか「なまける」とか、そういうのとは違うのだけれど、「努力を積み上げてお金を稼ぐ方法」「知恵を使ってお金を稼ぐ方法」という別々のルートがあるということかもしれない。

 チラシを配って商品の購入に結びつく確率を一般に「センミツ」と言ったりする。1000枚配って3件契約がとれる、みたいな確率論である。これはある程度決まった確率なので、逆に言えば「誰でも1000軒ピンポンすれば、3件くらいは契約がとれる」ことになる。

 もっと言えば、「頑張っても1000軒が30件にはならない」ということでもあるし、「アホでも1000軒配れば3件取れるし、カシコ(賢こ)でも、そんなに変わらない」ということでもある。

 このことを使って、ちょっと小賢しい人はネットビジネスの場でこんなアドバイスをしたりするから要注意だ。「1000記事ブログを書けば、かならず成果が出ます。再現性があります」なーんてね。そのとおり、再現性はあるのだ。センミツの確率で。


 こんな風に、「努力を積み上げる方法」ももちろんお金を稼ぐやり方としては大いにアリなのだけれど、それだと人はどんどん疲弊してしまうので、チート術としては推奨しない気持ちである。とはいえ、「現金がほしい!」できれば最短で稼ぎたい!という場合には、再現性がもっとも高く、かつ確実なのは「日雇いのバイトをすること」なので、これを一概にダメというつもりはない。

 うちの兄弟会社に仕事仲間がたくさんいて、彼らも給料が安かった時代に手っ取り早く稼ごうとして「工場の夜勤」を内緒でダブルワークしていた話をしてくれた。昼間会社で仕事して、その後夜にお菓子工場でお菓子を詰めまくるのだけれど、

「眠気がすごくて昼の仕事の時、思わず工具で指を詰めそうになったわ!」

とのこと。お菓子を詰めたせいで指を失っては元も子もない。えらいこっちゃ。

 つまり、努力を積み上げるやり方は、物理的には可能だけれど、物理的限界も当然あるということなのである。

 資本主義のしくみの上では、もちろんこのダブルワークが不可能なこともシステムに最初から組み込まれている。「資本主義とは何か」という基礎的、基本的なしくみの上で、夜の副業が無理だということもあらかじめちゃんと規定されていることを知っておくのは、悪くないだろう。ひゅーう。

 そこで、ちょっとお勉強で嫌ではあるが、「資本主義とは何か」ということをさらっと理解しておこう。そこがわかれば、チート術が活用できるようになる。

 「池上彰が教えてくれた『資本論』なぜ派遣切りが起きるのか」(FLASH)

という記事が、さくっとわかりやすいので、まずは目を通してほしい。

 簡単に言えば、その昔マルクスというおっさんが、「資本主義とはどういうものか」をいろいろ考えて、そのシステムをざっくり解明したのが「資本論」という本だという話である。


<「資本論」をまとめてみた>

■ 価値は労働から生まれる。

■ 資本家は労働を買う。

■ 労働者は労働を売るしかすべがないから、資本家に買い叩かれる。

■ 労働には「回復」が必要。回復するための費用が賃金。

■ 労働(回復費用)+剰余価値=商品価格となる。なので資本家は利益を得る。

■ 資本家は労働賃金(回復費用)を下げると、利益が上がるので、それを進める→貧富の差

■ ただし、商品を売りまくるとダブついて売れず、不況や恐慌になる。


 企業から見ると、賃金というのは「明日からまた働いてもらうための回復費用」ということになる。つまり、回復できるから翌日も働けるわけで、回復できなければ破綻する。なるほど、資本主義のシステムから言えば、「ダブルワークで昼勤と夜勤で働き倒す」というのは「回復期間」がないので成立しないということだ。もちろん、両方の時間の賃金は出るのだけれど、「3万円もらえれば5日くらいは寝なくても大丈夫」とか「5万円もらえれば一週間はご飯いらない」という人はほぼいない。だからその賃金で回復の時間やご飯をゲットしなければ、人は生きてゆけないのだ。

(ちなみに3万円や5万円というお金だけつぎ込めば、回復不要な労働力が存在する。それがロボットやコンピュータである。だから製造業はどんどんロボットに移行し、その他の業種でもIT化が進む。だって回復させる必要がなく、固定費だけで働き倒すことができるからである)


 商品のコストを下げ、また企業の利益を多くしようとするなら、「労働者が回復するための費用を最小にする」のが早いことには誰でも気づくと思う。だから労働者にはたまのボーナスなどで調整してさえやれば、あとはできる限り安価で回復してもらうに限るのである。あるいは、ボーナスなどのない、派遣社員やアルバイトを活用すれば、もっと効率よく利益を上げられるのは、誰にでもわかる話である。


 こうした資本主義の根本的ルールを知った上で、「お金持ちになるとはどういうことか」を考えると、いくつかのポイントが見えてくる。それは、まず逆の言い方をすれば、「なぜ僕たち、私たちは、労働者なのだろうか」という質問に置き換えることができるだろう。そもそも「資本家であれば、労働をしなくてよい」のであれば、なぜ僕たちは労働者という立場なのだろう、という原点に立ち返ることだ。

 その答えも、「資本論」にすでに書いてある。そう、僕たち私たちは「労働力しか売るものがない」から労働者なのである。

 もし、私たちが他に「売るもの」を持っているのなら、労働者ではなく「資本家の側に回ることができる」というシンプルな理屈だ。

 そう!すごく簡単な話で、「売るものを持っていれば」よいのだ。それで少なくとも単純な労働者の立場からは、逃れることができる。

(これまた逆説的だが、売るもの・売れるものとはつまり資本の一種であるから、売るものを持つということは資本家のはしくれになることを意味する)


 「売るものを持つ」という視点があれば、単純労働者からは脱出できるし、資本家になることもできる。これはとてもシンプルな話だが、実際には労働者である僕たち私たちにとって、これを実行するのは「一見するととても難しい」ことのように思えるだろう。

 なぜなら、高校や大学を卒業したばかりの若者にとって、その時点で「売れるもの」なんてたいして持ってやしないから、仕方なく「労働力」を売る会社員・労働者にならざるを得ない。昨今では学生でも「起業家になる」という風潮が出てきているけれど、それはある意味では正しい。なぜなら、「売れるものを見つけて、資本家側に回りたい」ということなので、その考え方はバッチリ資本主義と合っている。それでも大半の人は、そんなものを思いつかないことのほうが普通だと思う。


 ところが、実際に企業人、会社員として働きはじめると、出世する人とそうでない人は大いに差がついてゆく。おなじ労働力を売っているだけのはずなのに、社内でどんな差がついているというのだろう。現在経営側に回っているヨシイエからすれば、答えはこれまたシンプルだ。

 社員の持っている労働力という「売りもの」が基本的には等しく似たりよったりだとする。しかし、その商品群のなかに「魅力的」なものがあれば買い手は高い金額を出してもよい、と考えるし、高い給与の立場に彼・彼女をつけたいと考える。

 ただし、ここで注意が必要なのは、「一生懸命、労働集約型の仕事をして魅力を出す」方法は、良い場合と悪い場合があるということに気をつけてほしい。普通に考えると「一生懸命頑張る労働者は、企業からみてコスパがいいので、魅力があると思うはずだ」と僕らは思いがちであるが、それは場合による。

 経営者が良心的な人であれば、「頑張っているので、給料を上げたり、給料が上がる立場につけてあげたい」と考えるので、その場合は「努力」は成立するし魅力になる。

 しかし、経営者が良心的でない場合は、「頑張っていてコスパがいいのであれば、その状態が望ましい」と考えるだろう。つまり、頑張っている労働者は、コスパがいいのであれば、給料を上げてしまうと他の労働者とコスパは同じになってしまうということだ。それなら、ギリギリまで彼をほっておいたほうがコスパがいい。辞めそうになったら、そこで考えればいいだけだからだ。

(もちろん、実際の経営では頑張っている人材に報いないと、他の人材にも影響が及んだりするので、そのバランスを考えながら采配することが多い。頑張ることがアホらしくなると、他の労働者にも頑張らないことが波及したりするので、そのあたりを見極める戦略シュミレーションゲームのようなことが行われていると思ってよいだろう)


 こういった事情もあるので、「労働集約型で努力を重ねる」のは当たりの場合と外れの場合が起きることはチート術としては知っていて損はない。

 ではそれ以外の方法で、社内で労働力という「売りもの」に差をつけるにはどうしたらいいだろうか。それは、企業という買い手に「気持ちよく買っていただく」ことがいちばん簡単な方法である。

 普通の買い物でも、笑顔で明るい店員と仏頂面の店員がいる店では、僕たち私たちは前者で買い物したいと思うのは当たり前の反応である。だから、仕事場においても、「笑顔で明るく指示を受ける」社員と、「仏頂面で指示を受ける」社員であれば、あからさまに前者のほうが受けがいいし、最終的には給料も立場も上がる。重要なのは、この二人の能力がまったく同じであっても「そうだ」という点である。あるいはちょっとぐらいの差で後者のほうが能力が高くても、その差は明るさと元気で逆転するという点である。

 そもそも労働者は労働を売るしかないのだから、能力は似たりよったりでかまわないのだ。というか、会社や企業からみて、能力が高いと判断したものは、おのずとある程度の地位や立場につけるのだから、ヒラ社員が2人いても、彼らは同等と見られていることになる。だったら同じ労働力であれば、明るく元気で気持ちがいいほうが差がつくのは当然の話で、とてもシンプルだ。

 だからしょーもないことではあるが「体育会系のほうが重宝されやすいい」し「おべっかを使うヤツが出世する」のである。明るく元気でハキハキ命令にしたがい、あるいは、いつも(ニタニタ)笑顔で上司を気持ちよくさせるほうが出世するのは、ルール通りなのである。

 これはルール通りなのだから、「ズルい」とか「せこい」という話ではない。ただ、世の中にはそういうチート術が嫌いな人もいるだろうので、そういう人には、それ以外の「差がつく方法」を考えなくてはいけないだろう。簡単な方法から、少しずつ難しい方法になってゆくけれど。


 個人的な話だけれど、ヨシイエが結果的にうちの会社で他の社員と差がついた点は、大きいネタはひとつだけだと思っている。もちろん、できるかぎり笑顔で明るく仕事をしてきたつもり、というのもあるけれど、もし周囲の同僚がみなそうだったら、ヨシイエはリードできなかっただろう。

 ヨシイエの場合は、うちの会社で売掛金が溜まっていた20社近くの取引先との集金やりとりや、裁判を一人で行った。いわば戦国時代の戦場で言えば「しんがり」であり、嫌な言い方をすればそれまでの前任者たちのツケの「ケツ拭き」をしたのである。それをしたのがヨシイエただ一人だったからこそ、最終的には私は役員にまでなれたのだ。とてもシンプルである。

 私個人の能力は、その他の先輩や同僚とそれほど大差があるわけではないし、営業の成績だけを比べてもたいしたことはない。けれど、「売りもの」になる何かが「他人とは違う」ことが、たった10年での差に結びついたことは確かである。誰もやろうとしない債権回収と裁判実務をやったのが、ヨシイエだけのオリジナリティというわけだ。 

 この時の債権回収の経験をもとに、短い小説を書いたのだけれど、もしお暇なら見てね。

 「営業刑事は眠らない」吉家孝太郎  


 一時期はアップルのアプリにもなったりしたのだけれど、今は廃盤。


 さて、とりあえず今回のまとめ。会社員や企業人は「会社に労働力を売っている」のだから、おなじ労働力に「こちらのほうにより価値がある」と見せるためには「気持ちよく買っていただく」のが楽ちん。企業のために努力して「コスパを上げて提供する」のもアリだけれども、搾取されるだけの場合があるから気をつけよう。

 そしてできるなら「本当に差がある労働力だとわかる、他者と異なる能力や行動」をアピールできれば、社内でお金持ちになれるスピードが上がる、というお話。

 すべて難しいことではなく、シンプルなしくみだと気づいてほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?