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【資本主義をチートする15】お金は「無」から突然沸いてくる

 この連載を読んでいる人たちは、基本的には

「お金がほちいなあ!」

「どこかからかお金が沸いてくればいいなあ!」

と願いながら、それでもお金が沸いてこないので悶々としている日々を送っているだろう。

 そこで仕方がないので「労働」という形で自分の人生を切り売りしながら、それをお金に換えてつつましい生活を送っているというわけだ。

 ところが、前回のことをよく思い出して欲しいのだが、お金の化けの皮を剥がすと、そこには「気分」がこんにちはしていることをお話した。

 100円で仕入れたものを120円で売るとき、「その20円は何なんだ?」と突き詰めてゆくと、そこには「気分」みたいなものが横たわっているという話だ。

 もちろん、少し経済に詳しい賢明な読者なら、「いやいや、それは気分だけではなくて、そのほか会社を動かしていかねばならない経費だって20円には含まれているじゃないか!」と言い出す人もいるだろう。

 確かに、その部分は前回端折った。省略した。細かいことを言い出せば、20円のうちたとえば10円くらいは会社の経費や従業員の費用やら、いろいろ含まれるだろう。

「では、最後に残った10円か、あるいは5円の正体はなんなんだ?」

ということを再び突き詰めると、結局は同じ話になる。気分なのだ。

 商品価格のうち、絶対に必要な「仕入れ価格」と販売に必要な「経費」を一切がっさい引いた後の残りが、何円なのかは知らないけれど、

「それが何円であれば、妥当なのか」

ということは誰にもわからない。だから営業マンは、値つけ・価格設定の権限をもし持っているなら、何もわからず「気分で」ギリギリまで原価を割らないところまで値を下げようとしたりする。それで損をしないならば、なんとか成立するからだ。

(しかし、これは何度も言っているがアホの極みである)


 さて、ではせっかく資本主義のしくみの裏側を覗いているのだから、もう少し大きな視点で、「お金の正体」について解明してゆこう。今回は、前回の補足というか、続きのお話になる。


 究極的にコストを除外した「利益」なるものは、「気分」によって発生する。そのため「需要と供給」のバランスによって

「欲しい気分が蔓延すれば利益を高くとれる」

「いらない気分が蔓延すれば、利益は下手すればなくなる」

ということが、毎日セカイのそこかしこで起きている。

 いずれにせよ「気分」であるから定量的には計測できないものであることは間違いない。結果として「今期はこういう販売数が出たよ」みたいに数値化はできたとしても、「気分」なのだから、正確に数字で事前に処理することは難しいものである、と言えるだろう。

 だから、ファッション業界なんかでは、毎年パリで「今年の流行を決める会議」を行っていて、「何が流行するよ」ということを

「推測するのではなく、会議で勝手に決める」

ということをやっている。ボーダーがはやるとか、ミニがリバイバルするとか、そういうのは「未来の結果を推定して、それに対して利益を推計する」ということが難しい、というかそんなことは”できない”ために

「こっちから流行するものを決めて、それに合わせてみんなで示し合わせれば、少なくともハズレにはならないじゃん!」

と談合しているのである。ファッションに詳しい人にとっては、当たり前の話なので、詳しいことはググってもらえればいいだろう。


 この「気分」みたいな、いいかげんで計測不能なものがお金の正体なのだが、それでもそんな「当てにならなそうなもの」を資本主義社会のベースにするのは怖いので、金融界ではもう少しそれっぽい言葉を使って言い換えている。それが、

「信用」

という言葉である。

 なんと!ここからの話はすごいことなのだが、「信用」というマジックワードを使うだけで

お金が無から沸いてくる

というのだから驚きだ!

 そもそも、「信用」なんてものは、「その相手が本当に信用に足るのか、信頼できるのかは、最終結果までわからない」ものであり、「気分」とおなじくらい怪しいものである。

 それでも人類はなんとかして

■ あの人は定職についている

■ あの会社は土地と建物を持っている

■ あの人は公務員だ

■ あの会社の取引先は大企業だ

などと、いろいろ「屁理屈」をつけて、それをいちおう「数値化」(スコア化)して、なんとかそれっぽい形に整えながら、

「信用」というものを成立させている

 しかし、数値化された「信用」なんてのは、本当は「気分」とおなじくらい怪しい。

”公務員の管理職で土地を持っていて、奥さんが資産家の娘で、娘は音大に通っている”

という人物は信用が高そうに見える(数値化できる部分)が、

”満員電車で痴漢して捕まった”

ら、一発でそれらを失うだろう。

むらむらした気分

(数値化できない部分)は、時にすべてをひっくり返すようなパワーを持っているのである。


 話がズレたので、本筋へ。時を戻そう。

 信用というマジックワードを使えば、お金が無から生まれてくるという話である。これは銀行員なら当たり前のことだが、一般人はあまり理解していない。そう!私たちにおのずとお金が沸いてこないのは、銀行員ではないからである。

 これを説明するのにとても良い記事があったので引用しておくが、賢い読者諸君なら、上の記事を見ただけで「そうだったのか!」と驚くに違いない。

 ざっくり平たくまとめると、こういうことだ。

 銀行があなたに1000万貸すとして、銀行は1000万円なんか持っていないのに、「通帳」に1000万貸出しました、と記帳するだけ

という話である。

 どうしてこんなことができるかと言うと、

■ 「返してくれるだろう」という信用があるから

(本当に返してくれるなら、銀行としては1000万円の実物を持っていなくても困らない。記帳の数字を動かせばいいだけで、実物の現金を渡す必要がないから)

である。


 さらには、

■ 「記帳するだけで1000万円が無から生まれる

ことになり、それを「信用創造」と呼ぶ。


 まあ、考え方としては

「元手が一切なくても、信用とそこから生じる借金によって、お金は出現する」

という視点は重要である。そして、今回はここで述べなかったが、この1000万円には当然利息がつき、その利率は市場の気分によって変動するのである。


 このように、資本主義のシステムでは、基本的には「利益を乗せることができ、利息もとれるし、元手もいらない」のだから、お金は無限に増殖する傾向がある。

 僕たち私たち庶民にとっては

「お金は出てゆく一方で、減少するのでひいこら言わねばならない存在」

なのだが、資本主義のシステムでは

「お金は黙っていても無限に増殖する存在」

である。

 いったい全体、僕たち私たち庶民が見ているお金と、資本主義システムのお金とは何が違うというのだろうか。

 おなじ相手とは思えないほど、その立ち振る舞いが違い過ぎるのはなぜなのだろうか。


 実はこのことにも「信用」という概念が大きく関わってくる。お金は無限にお金を生むようにできているが、それは

「システムがうまくいっていると信用され、信頼されている時に限る」

という条件が付くのである。


 そもそも銀行経済におけるお金とは「信用による借用証書」なのであるから、「完済」されることで成立するし、それにともない「利子をつけて弁済」してくれることで利子が生じるわけだ。

 ところが「利子も払えない」「元金も払えない」という、借り手が「信用を毀損した状態」に陥ると、とたんに「無限増殖は成立しない」ことになってしまう。

 銀行からすれば、最初に1000万円を記帳した時点で、そのお金を払い出す義務が生じる。実際に借り手がお金を使ってゆくのだから、銀行から見れば、「元手がないのに、自分のお金がどんどん持ち出しになる」状態が続くことになる。

(実際には、銀行が現金が足りずに通帳から払い出せないという事態は、取り付け騒ぎの時以外は起きないのだが)

 つまり、無限増殖は「お金を返してくれるから成り立つ」のであって、相手がお金を返せない状態になると、

「銀行は現金をだらだら流血してゆく一方」

になるのだ。手持ちも薄いのに。これは非常にヤバイ。意識が遠のいてゆき、いずれは、出血多量で死に至るだろう。


 この逆回転が始まると、お金というのは「マイナスの増殖」をはじめる。株価が暴落するとか、サブプライムローン破綻とかを思い出して欲しいが、

「1億の価値があったはずの会社の株が3000万になってしまう。7000万円が逆回転で消えた」

「100万円の価値があったはずの債権が紙切れになってしまう」

ということが起きるのだ。だからセカイの政治家は、この逆回転が起きないように、

「資本主義システムが、可能な限り正常回転を続けられるように」

心配りをして経済政策を行っているのである。うまくいっているかは知らんけど。


 さて、ではここからが資本主義チート術である。僕たち私たちは、しがない労働者ではあるが、できることならば銀行のように、「信用」なるものをコントロールして、元手がなくてもお金を生み出せるような方法を開発したい。


 実はそれが、ネット社会の一部ではすでに用いられている「いいね」や「PV」「フォロワー」といった”信用が変形した数字”であるとも言えるだろう。

 デジタルな世界では、すべての事象を数値化しないと、そもそもデジタルなんだから計算できないし処理できない。ということは、あやふやで不確かな「信用」というものは、そのままではデジタルやネットには不向きなため、どうしても数値化された指標に落とし込まれてゆく。

 だから「いいね」の数を集めることは、それが単なる承認欲求にすぎないかどうかは別にして、「資本主義」の波に乗る上では重要なポイントになるし、すでにそうなっている。

「いいね」や「フォロワー」が多いことは「信用」度が高いと一般的に解釈されて、その人物が何か行動を起こすと、おのずとお金が動くようになってきている。

 だから、単なる労働者であった昨日までの素人さんが、いいねやフォロワーを集めることにやっきになり、その結果「何らかの形で商業デビューしてゆく」というのは、資本主義の技法においては

当然そうなる、当たり前の術

なのである。

 実際の労働によって、お金を増やすことよりも「信用創造」を利用してお金の価値を増やす(あるいは借りる)ほうが、速度が速いので、みんながそれに飛びつくのは当たり前なのだ。

 これは、(性的じゃないほうの意味で)いやらしい話だけれども、しかたがない

のである。


 じゃあなんだ?ヨシイエは結局

「資本主義をチートするなら、労働よりもいいねを増やせ」

というのか?

という声が聞こえてきそうだが、それはある意味では悲しいけれど、合っている。倫理的には寂しいが、この資本主義システムがそうなっていることは、知らないよりかは知っていたほうが、はるかにいい。


 それはつまり、純朴なる善人ではなく、悪人になれ、ということなのだろか?

 それはつまり、清貧で生きるよりも、心を鬼にせよということなのだろうか。

 その葛藤を抱きながら、次回はもっと恐ろしい話をしよう。



 

 



 

 

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