見出し画像

【資本主義をチートする14】 お金の化けの皮を剥いでみたら、何が出てきたと思う?

 資本主義のしくみについて、この連載も14回目を迎えるわけなので、いちばん最初から読んでくれている読者の方にとっては、お金との付き合い方や、このセカイにおける「世渡り」の仕方が、なんとなくでも理解できてきている頃だと思われる。

 もう、何度も口を酸っぱくして言っているが、「資本主義の根幹は?」なんて尋ねたら、「情報の非対称性!」とすぐに答えが帰ってくるくらいには、テストに出ても大丈夫なようになっているはずである。


 そこで、今回はあえてこんなことを尋ねてみよう。人間というものは、理解した・わかったようなつもりになっていても、実は全然何もわかっていなかったりする恐ろしい生き物だから、再確認が必要なのだ。

 その昔、ゲームボーイのソフトで、スクウェアが出していた「魔界塔士Sa・Ga」というRPGがあった。

 ロールプレイングゲームであるから、主人公たちは必死になって、何度も何度も現れる敵を倒して進んでゆく。Sa・Gaの舞台は、「塔」になっていて、一階から最上階まで物語を進めながら階段を上がってゆくのだが、ようやく苦難の結果、一番上までたどり着いたと思ったら、

「また一階へ叩き落とされてしまう」

というストーリーになっていたのである。なんでやねん!と誰もが叫ばずにはいられないだろう。

 余談ながら、このゲーム、ほぼ無敵なくらい強いラスボスである神をチェーンソーで切りつけると、一発で倒せるという仕様で、当時の少年少女たちに「神を殺す」というニーチェもびっくりな哲学的体験をさせられたものだから、忘れられないゲーム史の名場面として語り継がれている。まさにサーガとなったのだ。


 さて本題。最上階から最低辺へと突き落とされる感覚を味わおうではないか。ここで質問だ。

「資本主義では、どうして利益が発生するのだろう」

 この連載では、ほぼ一番最初から、資本主義の基本的な仕組みとして利益の話をした。特に第3回では、あの松下幸之助さんですら1円で仕入れたものを1円20銭で売ってよいのだ、と言っている話をしたくらいである。

 資本主義では、「利益を乗せて商売をしてよいのだ!」というバカボンのパパもびっくりの「これでいいのだ」という大前提があるのだが、今一度考えてみてほしい。

「なぜ、その利益を乗せてよいのだろうか」


 ・・・そんなもん!そうしないと経済が回らないし、儲からないからじゃないか!

という声も聞こえてきそうだが、歴史においては「物々交換の時代」もあったし、利益を要求しない「ボランティアの世界」だってある。

 言い方を変えよう。1円20銭のうち、20銭はいったい

「何が、どこから湧いて出てきたのだろうか」


 これが、ギャンブルなら話は簡単だ。みんなでお金を出し合って、(つまり、賭けて)、バクチに勝ったものがそれらをまとめて総取りする。負けたものはお金を失うが、その場所にドン!と出された金額の総額は同じだ。

 もちろん、ショバ代としてテラ銭(運営費・胴元費)がいくらか総額から抜かれて、その上で参加者内で「分け合う」ことはあるだろうが、それでも

「どこかからかお金が湧いてきたりはしない」

のである。(なので、専門的にはこういうシステムを「ゼロサムゲーム」と呼ぶ。何も増えていないからだ)


 では、資本主義では「どこから何が湧いてきているのか」がポイントになるのではないだろうか?これはもしかすると凄いことなのかもしれないが、実は僕たち私たちは「一体なにが湧いているのか」全然わかっていない。

 つまり、塔の一番最下層へと再び話は戻るわけである。


 さて、グーグル先生に尋ねようと「利益とは何か」と検索しても、ほとんどの場合は「会計上の定義」のようなものしか引っかかってこない。あるいはWikipediaで探しても、単なる言葉の定義しか見つからないだろう。

 ちょっと頭をひねると、もしかしたら、これまた一番最初に説明した「マルクスの資本論」の考え方が見つかるかもしれない。

 マルクスの場合は、労働者であるあなたに賃金を払うとして、

「あなたをただ生かせておくだけに必要なお金・時間・パワー」

というものがあるとして、それを給料や休日という形で賄った場合、

「余力が残る」

ことに気付いた。(もちろん、この時点では毎日が日曜日である)

ところが、その余力を労働につぎ込めば、そこに「価値が創造される・生まれる」という仮説を立てたのである。


 ちょっと変な例えだが、「生活保護」で生きている人がいるとする。その人が生活するのに必要なお金はすでに渡しているのだから、彼は一切何もしなくても生きていけるし、突発的な事件でその分のお金が減らない限り、その状態は均衡している。

 さて、もしこの「生活保護で生きている人」が、誰かに何かをしてあげたとしよう。そうすると、それによって起きた「何か役に立つこと」というのは、まったくのゼロから「価値が創造された(生まれた)」と言えるだろう。

 この時、その人は、別に単なる善意でそのことをしてあげたのだが、「してもらった人」に対して、あとからこっそり、とあるおっさんが「実はあれは、私があなたにしてあげるように言って、そうしてもらったのです」なんてことをヒソヒソ言ったとしよう。それを聞いて、「してもらった人」は「まあ!それじゃああなたのおかげだったのね!お礼にわずかばかりの粗品を受け取ってちょうだい」なんてことになったりしたら、どうだろうか。

 価値が創造され、対価であるお金(粗品)が誕生した

ことになる。 


 さて、ここでこれを見ていた読者はこう言いたくなるだろう、ひそひそ話をして、粗品をもらったおっさんに

「お前は何もしてへんやないか!」

と、大声のひとつでも張り上げたくなるはずだ。

 いやいや、しかし、実はこれが「資本家と労働者」の関係なのだ。

 資本家は実際には労働しないから、本人は価値を生み出さない。ただ、「生きてゆくのに最小限の生活保護費のようなものを渡している」だけで、それ以上の部分については横取りをするのである。

 それを資本家が労働者を「搾取している」と言ったりするのだ。


 とまあ、これがマルクスの資本論における「利益の正体」なのだが、これは一つの側面であって、すべてではない。利益やお金の化けの皮を剥がすと、

もっと恐ろしいモノ

が飛び出してくるのだから、身構えなくてはならない。


 資本主義のチート術としての「利益」や「お金」の正体は、結論から言えば、

「気分」

である。きぶん、そう、「♪気分上々↑↑」のキブンであり、「セブンイレブン、いい気分♪」のキブンだ。

 ここに、マッキントッシュの古いコンピュータがあるとしよう。あなたはこのマシンにいったいいくら出したいという気分になるだろう。

「そんなもん全然いらんわ」

と言う人は、「ゼロ円という気分」である。

「マジか!初代128Kなら喉から出るほどほしいわ!」

と言う人は、数十万円でも出すかもしれない。


 そうそう。この間、任天堂とソニーが研究開発のために作った「プレステとスーファミの合の子」の試作機が見つかり、オークションにかかったのだけれども、最終的には3800万円で落札された。

 ちなみに、これを見つけた人が、ゴミ一式で落札したときは75ドル(約1万円)だったので

「1万円という価格と、3800万円という価格が、おなじものについている」

ということがわかる。これを合理的に説明できる理由はたったひとつだ。

「1万円でいいわ。ひとやま持っていきな」という気分と、「これはすごい!いくら出しても欲しい」という気分の違いである。

 あるいは

「株価は欲望の鏡である」

といった言葉があるように、気分は「欲」として現れる一面もあるだろう。



 とまあ、結論から言えば、利益の中身やお金の化けの皮一枚剥いだところにあるのは「気分」でしかないのだが、それではあまりにも「労働でひいこら言わされている僕たち私たち」がまるで「気分」でこきつかわれているようで泣きたくなるから、もう少し解説をしておこう。


 資本主義社会における「価値」とは結局のところ「気分」にしか過ぎないのだが、その「気分」はあなた個人の

「あたし、今日キゲンが悪いの」

とか言う、しょーもない個人的理由の気分とは少し異なる。個人の気分が集合していった先の「機運」のようなものだと言えるだろう。

 よい例がウイルス蔓延による株価の暴落や、トイレットペーパーの売りきれ騒動だが、論理的に考えると「今日と明日の生活の中身が暴落して大変化するほどの違いはない」のだから、「今日と明日の株価は、ほぼ同じ」であることが正しい。

 あるいはトイレットペーパーの供給に問題がないのであれば、売りきれ騒動が起きることは「論理的には正しくない」と言える。

 しかし、誰もが頭ではわかっていてもそうならないのが「気分」の恐ろしいところで、万人が「うんこが拭けない!」という気分になれば、本当に世界中でトイレットペーパーが売りきれてしまうのである。

「うんこが拭けないかもしれないという気分」

はすごいのだ。


 サブプライムローンが問題になった時、債券化された額面上の債権(金額)は、本来の物件価値の20倍くらいになっていたという。

★正確な数字を覚えていないので、ぜひどこかで見つけた人は教えてほしい。

 物理的に考えて、担保となる「ブツ」つまり住宅がそこにあるのに、それが20倍の金額になることがおかしいのだが、債券として丸めこんでいるうちに、何の裏付けもない利益が乗ってそんなことになってしまったのである。

 そして、20倍にもなった債権は、現実のブツと付け合わせをすると、すぐに矛盾が露呈する。

「あれ?これにはこんな価値がないわ」

と、冷めた気分になってしまうからだ。

 これが、バブル崩壊というやつである。

 人類は定期的にこれをやっている。

「知らず知らずのうちに、気分で価値を肥大させ、ある程度大きくなったところで、『あ、やっぱこれ盛りすぎたわ』と冷静になる」

ことを繰り返して世界のマーケットは輪廻転生しているのである。


 余談であるが、日本企業だけが、世界の企業に対して価値を増やせていないのは、日本人がケチだからだと思っている。商品やサービスに「お金を払いたくない気分」の人間がおそらく世界に比べて日本人は多い。そのサゲサゲな気分が、僕たち私たちを低賃金へと導いているのだ。

 

 さあ、いよいよ今日の最後のシメに近づいてきた。利益をどれくらい乗せていいのか、とか、モノに対しての価値の判定が

「ある程度気分的なもの」

なのだとしたら、その気分はどのように生まれるのだろうか。

「これくらいが、妥当だ」

と思わせたり、思わせられたりするその根底には、どんな理由があるのだろうか。


 話はここでまた、振り出しにもどる。そうだ!

「情報の非対称性」

である。すべてはここに戻ってくる。これがすべての基礎であり、一階部分であるのだ。


 つまり、こういうことだ。「このブツは希少だぞ」と思わせるには、実際の数量を少なく生産したりすればいいのだ。あるいは、そういうイメージを作りあげて「価格を釣り上げる(利益を釣り上げる)」ことができる。

 ブランドのアパレルなんか、半分くらいワンシーズンに新品のまま捨てる。陳腐化したり、どこにでも溢れてしまったら誰も高く買わなくなるからだ。

 逆に、「そんなもんどこにでもあるわい」とたくさんの人にバレてしまうと情報が対称になり、つりあいが取れてしまうので「価格が上げられず、利益も上げられなくなる」のである。

 あるいは、「おなじものならうちでも作れる」と商圏に参入する人たちが増えても、情報は対称へと近づくし、「海外でならもっと安く作れる」とかそういう状況が起きても、天秤棒が平衡へと近づいていってしまうことは、すぐにわかるだろう。


 今日の最終まとめは、「お金」とは結局、「情報の非対称性」によって生み出された、「価値をどのくらいで妥当と考えるかの気分」に過ぎないことである。

 多くの人の気分がある方向に傾けば、バブルになったり、逆に陳腐化して見向きもされなくなったりする。

 武蔵小杉のタワマンが、たった一度の災害浸水で「ダメ認定」されたように、ウイルス騒動のような「事件」が起きた時は、それが一気に明らかになる。

 株価が「事件」に連動するのは、そういう理由なのである。

 



 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?