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【資本主義をチートする・あとがき】資本主義は限界なのか?

 資本主義は限界だ、と言われて久しいが、かといって「ポスト資本主義」に相当するような新時代の「理想社会」は、偉い人がよってたかって考えてみても、なかなか登場しないという現実がある。

 だから「資本主義は100%大手を振って満足できるものではない」とは思いつつも、あとしばらく僕たち私たちは、こいつとつきあって行かなくてはならないのだろうな、と覚悟と諦めの気持ちになっているところである。

 だからせめて、この世知辛い資本主義の世の中が、ちょっとした工夫で渡りやすくなればいいな、と思って書き上げたのがこの連載なのだが、資本主義の裏側を覗いてしまったヨシイエとしては、いろんなことの「答え」はもう見えている。

 いやいや、これは別に偉そうになにか予言をしようと言うのではない。よくよく考えてみれば、資本主義のシステムはとてもシンプルで、かつ、そこにもう答えは出ているのだ。

 だから最後のあとがきでは、「資本主義の限界の向こうに何があるのか」をお話しようと思う。


 そもそも、マルクスの資本論では、労働者に払われる給料は「明日も労働してもらうために必要な心身の復活のための費用」であった。だから、労働者に復活の費用さえ与えれば、翌日もまた同じように労働してくれるのだから、「心身の復活に足りないお金」では困るけれど、それは最小でもよいだろう、という発想が生まれてしまうという話をしたと思う。

 ただ、その視点ではひとつだけ欠けているものがある。それは、その労働者がいつまで持続して存在するか、という持続可能性の問題である。

 単一の労働者であれば、明日のための費用さえ払えば、少なくとも彼が死ぬまでは労働を続けてくれるだろう。しかし、彼が死んだ後はどうする?

 次の労働者が自動的に現れるわけではない、ということが、今では明らかになってきた。それは「子供が生まれない」という少子化の問題である。

 つまり、マルクスが考えた「復活のための賃金」というものが給料の正体なのだとすれば、それは

「次の世代を産み育てるのに必要なお金」

である必要があった、というわけだ。つまり、

「個人だけではなく、次の世代までが復活せねば持続されない」

ということが、遅まきながら「今頃になって」わかってきたのである。

 ぶっちゃけて言えば、現在の資本主義社会では、僕たち私たちが貰えている賃金は、「世代復活のための資金」にはぜんぜん足りていない。

 だから、派遣で若者が疲弊し、独身女性が貧困に落ち、引きこもりの男余りになってゆくのである。

(高度成長期からバブル期までは、一億総中流という幻想によって、それが見えていなかっただけだ)

 マルクスの原理原則のとおりに資本主義を運用すれば、「復活のための賃金」は、100歩譲って、たしかに最低限でもいいだろう。

 しかし、その最低限は「親子が、次の親子を再生産できる」持続性のある金額でないといけない。原理原則どおりですら、そうなのだ。

 つまり、資本主義社会が発展を持続させるためには

「最低でも、子供を3人、大人にできるだけの賃金」

が必要だということである。これは、よくよく考えれば当たり前の話である。

 これができないのであれば、資本主義は終わる。


 政財界の一部には、その次世代の労働者を「海外から連れてくればいい(移民)」と考える人たちもいるが、それは大きな間違いだ。

 あとでまたお話するが、「海外から安い労働者を連れてくる」というのは植民地主義の発想で、「自分たちが常に優位である」という大前提に立っている。つまり、資本家側が労働者よりも、圧倒的に「持てる者」であれば、という但し書きがついているのである。しかし、現実はそこからすこしずつズレが生じ始めている。

(たとえば、日本はもう中国人や一部のアジア人よりも圧倒的にお金持ちではない。優位だと思っているのは、幻想だ)


 そして、資本主義の根幹で、もうひとつ忘れてはいけないのは、

「そもそも、顧客はどこにいるのか」

という点である。

 資本家がいる、労働者がいる。そして、顧客はどこから湧いてくるのか。それを見失えば、資本主義は瓦解する。

 グローバル資本主義は意外とこの視点を忘れておらず、たとえば中国が「世界の工場」に発展してゆくプロセスにおいて、同時に中国が「莫大な顧客に化ける」ことも想定されながら勧められてきた。

 日本もかつて高度成長期に、このエンジンの回転(=労働者が給料を得て、顧客へと発展してゆくこと)を体験したはずなのに、今ではすっかりそれを忘れてしまい、資本家は

「労働者が次の顧客に化ける」

ことができないくらい賃金を押さえ込もうとしている。


 なぜ、ここで失敗してしまうのか。なぜ、ここで理解を間違ってしまうのかは簡単だ。中国もそう、日本の高度成長もそうだが、実は

「給料として払うお金は海外からやってきていて、資本家である自分たちが自腹を切っていなかった」

からである。

 昔の日本も、今の中国も、「何かを作れば海外が買ってくれる」のだ。つまり、お金は外からやってくるから、資本家は自分たちが持ち出す痛みを感じずに済む。だから一億総中流になれた。そして中国人は海外旅行で爆買いができるようになった。とても簡単な理屈である。


 実は、この他力本願で「自腹を切らなくてもいい」世界観は、資本主義の歴史においてそういう状況が長く続いてしまったので、誰もその本質に気づかないハメになっていることは否めない。こればかりはただ「日本人の資本家が悪い」とは一概には言えないだろう。

 たとえば、資本主義の初期、産業革命のスタートからすぐに、世界は「植民地主義」へと変化した。つまり、外側の「植民地から持ってくる」「取ってくる」「収奪する」ことをやっていたので、資本家はやっぱり「自腹を切らなくても済んだ」のである。

 第二次世界大戦を終えて、新しいセカイ観が生まれてもやっぱり「先進国と途上国」の格差を利用して資本主義は発展していった。先ほども述べたように「途上国に安く作らせて、利益は先進国がいただく」ということをやっていただけだ。

 宗主国と植民地の格差、先進国と途上国の格差。この格差によって資本主義が増大するというのは、この連載のテーマとぴたりと合致する。

 そう!何度も言っているように、「資本主義とは、情報の非対称性」そのものだからである。「持っている、知っている、わかっている」側が、「持たず、知らず、わかっていない」側の国民をコントロールしてきたからこそ、資本主義は維持できたのである。


 2020年の現代でも、実はまだこのやり方はギリギリ維持できていて、GAFAのような巨大企業が、ITを利用しながらセカイ各国から利益を収奪する方法が、なんとか回っている。

 しかし、その限界は近く、「中国が、インドが、アフリカが、みな高度成長しきってしまった暁には、セカイにはもう格差が残っていない」ということが起きる。「アフリカがみな先進国になった時は、資本主義は完全に終わる」ということは、もう賢い人はみなわかっているのだ。

 

 世界中から格差がなくなり、国家間の温度差が混ざり合って均等になってゆく未来になってしまったら、これまでの資本主義のやり方は通用しなくなる。そうすると、もうひとつのテクニックを用いるしかない。

 それが、これも連載で取り上げた「信用創造」である。信用創造でお金を膨らませる技術は、労働者の存在とは直接関係がない。なので、時にそうしたやり方は「マネーゲーム」だと揶揄されたり、「実態経済とは異なる」と考えられたりしているが、実体経済の側を支えていた「国家間格差」や「情報の非対称性」が均一化してゆくのであれば、もう資本主義には信用創造のテクニックしか残されていないことになるのだから、それしか使えるネタはないのだ。

 信用創造は、つまり、これまで「最低限のお金を与えておけばいいのだ」と思われていた労働者の存在を、まったく変えてしまうということである。

 そうである。ギリギリまで絞る対象であった労働者は、もはや「労働者」という枠組みではなく、「信用され、投資される対象」になるのである。

 平たく言えば、資本家が「信用して1000万円貸す存在」にあなたがなる、ということだ。

 これはすごいコペルニクス的転回で、マルクスの示した「資本家・労働者」モデルをひっくり返してしまうような発想ということになる。

 しかし、飛び抜けて無茶を言っているわけではない。これまた平たく言い換えれば、「信用して1000万円貸す」ということは、つまり、

「資本家に利益を与える顧客として、人々に投資する」

ということである。

 いやな言い方をすれば、

「顧客という豚を買い太らせれば、最終的には利益は資本家に戻ってくる」

という発想だ。

 だからこそ、資本家は次の世代が育てられるように、顧客に「金を貸す」必要があるのである。

 もはや労働者は、搾取の対象ではなく、投資の対象だからである。


 ヨシイエの言っていることは、けして荒唐無稽ではなく、資本主義社会の一部が、今ちょうどその転換期に差し掛かっていることは事実である。

 顧客の創造が、需要の創造を生み、最終的には資本主義を膨らませることは、賢い人たちはわかっている。

 しかし、愚かな資本家は、それが「頭でわかっていても、心でわかっていない」のである。

 そりゃあ、そうだ。つい昨日まで、「顧客は労働者であり、キリキリ絞る対象だった」のだから。いきなり、労働者は明日から投資対象です!なんて言われても、心がついていかないのは当たり前である。

 だから一方で働き方改革だの、労働条件の緩和が起きるかと思えば、非正規雇用だの不利な雇用が生じたりする。まだまだ、アンビバレントな矛盾がしばらくは続くだろう。


 ただ、ヨシイエは世界が近い将来にそう変わってゆくのか、あるいはそう変われないのか、それを今の所この目で見られそうだとワクワクしている。

 資本主義の明日に、落胆してはいない。たしかに今はひどいけれど、資本主義が生き残る可能性もゼロではないからだ。

 もしかすると、労働者が「潤沢な投資を受ける者」として輝ける日々がやってくるのではないか?と期待もしたりしている。それを見たい、と心から思っている。

100日後に死んだりしなければ、ね。

(おわり)


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