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【資本主義をチートする 番外編】 100日後に死ぬワニ、はなぜ大ヒットしたのか。

 この「資本主義をチートする」シリーズ、連載開始から既に多くのPVをいただいていて、うれしい限りのヨシイエであるが、せっかく「資本主義社会を乗りきる」ために、いろいろな裏技や表技について説明している機会なので、今日はネットで大注目された「100日後に死ぬワニ」が持っている「資本主義の根幹にまつわるしくみ」について考えてみたいと思う。

 結論から言えば、「100日後に死ぬワニ」は資本主義システムにおいて「とてもよくできている」と言える。その作品の中身の良さもさることながら、この「タイトル」にすべてが集約されていると言ってよい。

 わたくしヨシイエは、21世紀最大の大ヒット「広告コピー・キャッチコピー」を選ぶなら、イケダハヤトさんの「まだ東京で消耗してるの」がベストだと個人的には思っているのだけれど(笑)、それに匹敵するほど、「100日後に死ぬワニ」というタイトルはよく出来ていると感じている。


 いやいや、よく考えれば、人も生きとし生けるものも、すべてはみないつか「死ぬ」のであって、よく「人生は3万日しかない」なんて言われるけれども

3万日後に死ぬ君

なんて作品を出したりしたら、なんとなく即日炎上しそうな気がするのは、もちろん「死」がタブーの一種でもあるからである。その意味では、北斗の拳の

お前はもう死んでいる

が、嫌な感じどころか、ある種の爽快感を持っているのは、「お前」ということばが、誰も自分自身を指していないことを承知しているからで、それが「悪人に対してのことば」であることが明確なので、安心できるというわけだ。

 この「自分ではない」という安心感は、「100日後に死ぬワニ」でも存分に効果を発揮していて、「100日後に死ぬ田中」とか「100日後に死ぬ僕」とかであれば、

おのずと読み手の人生に関わってくる感じがする

ので、嫌悪感を催してしまう。それが、相手はあくまでも「ワニ」であるので、擬人化されてはいても、「ヒトである自分たちのリアルな世界には踏み込んでこない」というちょっとした安心感がある。これは大事なことだ。

 「死」というタブーなもの。「死」という不安感と、「ワニ」という安心感のちょうどよいバランスの中で、僕たち私たちは、「けして自分の側にこないものを、覗き見すること」ができる、という絶妙さが、このタイトルには隠されているのだと思う。


 さてさて、いろいろゴタクを並べているが、本題に入ろう。

 今回のポイントは「資本主義をチートする」という視点からみた一連のワニさんのお話である。


 実は、「100日後に死ぬワニ」という設定は、これまでの漫画や物語の提示の仕方としては、すごくヘンテコリンなものである。たとえば、これまた大ヒット中の「鬼滅の刃」という漫画があるが、

「鬼滅の刃!令和2年5月号で最終回!」

と、連載”開始”から書いているようなものだからである。

え?なんじゃそりゃ?と確かに興味を引くけれども、そりゃあ、たしかに最終回は気になるけれど、いきなりはなくなくなくない???

と誰もが思うはずだ。

 でも、「100日後に死ぬワニ」はそういうことをやっているのである。不可思議なことに!

 ではどうしてこれが成立するかというと、「心理学的側面」からの説明と、「資本主義の側面」からの説明の2通りで説明が可能なのだが、このnoteではもちろん、資本主義の側面からまずお話してみよう。


<資本主義の側面から見た、100日後に死ぬワニ>

 資本主義の根幹、そして「儲けが出る」「儲かる」ことの根幹は「情報の非対称性」にある、というお話をしたのが前回。そして、それが資本主義の”すべて”であるのだから、「100日後に死ぬワニ」が注目されたのには、おなじ理由が潜んでいると考えてよいだろう。

 そう!「100日後に死ぬワニ」は、最初のタイトル、そして設定からすでに「情報が非対称である」ことを読者につきつけているのだ。

 もちろん、このお話がすばらしく、かつ良くできているのは、「情報を最初に与えるように見せている」点でもある。読者はワニが死ぬことを最初から知っているのだから、「情報は一見すると読者のほうにすでに与えられている」と思いがちだ。

 しかし、実は「情報を与えているようで、実は何も与えておらず」

ワニはなぜ死ぬのか、どのように死ぬのか、死んだらどうなるのか

といった、肝心なところがすべて非対称なのである。

 資本主義において、「非対称である情報」を求めて人は購買するし(もしそれが無料であれば注目する)、それを渇望するわけで、その意味では「100日後に死ぬワニ」という設定は、本当によくできていると感じる。

 知りたい!という渇望が生じるように当初から設定して、かつ終盤に向かってそれがどんどん高まるようになっている、というこのシステムは、ほんとうに素晴らしいと大拍手である。


 実はこの手法は、広告やCMなどでもよく使われている。そもそもCMなんてのは、その商品がどういうものか、あるいはその商品の価格がいくらかといった「肝心で、詳細な説明」というものを提示する時間も余裕もない。

 いちばん大事なのは「その商品でどんなことが出来て、いくらで、購入者の役に立つのかどうか」なのだけれども、そんなことは一切説明しなくても「それを知りたい!」と思わせることさえできれば、

すべては後回しでもかまわない

のである。

 そして、今度は心理学的においても、もう少し補足すべきところがあるので、次はそちらの話をしよう。


<心理学的側面から見た、100日後に死ぬワニ>

 突然ではあるが、あなたはキャンディスちゃんのことを好きだろうか。

「は?キャンディス?誰の事?」

と感じるのが、たいていの人の反応であろうと思う。キャンディスちゃんとは、ディズニーアニメの「フィニアスとファーブ」という作品に出てくるお姉ちゃんなのだが、そこまで言われてもまだたいていの人にとっては、

「ちょ、何言ってるかわかんない」

というサンドウィッチマン富沢さんのような気持ちになるだろう。

(もちろん、フィニアスとファーブを知っている人は、「ああ!あのキャンディスね!」とすぐに合点がいくことだろうが)

 おなじことを「ゆうこりん」に置き換えてみよう。あなたは「ゆうこりん」が好きだろうか。ちょうどいろんな意味で話題になっているので、それぞれ好き嫌いいろんな感情が沸き起こってくるだろう。

 つまり、人というのは「知っていることにしか、基本的には興味を示さない」生き物なのだ。「知らないことに好奇心を持つ」と思いがちだが、そのとっかかりの一部を「知って」いないと、そもそも興味を持つことはできない。なぜなら「なんのこっちゃわからない」からである。

 そのため「100日後に死ぬ」ということを知っていることは、大きな興味をかきたてられる。「死ぬことを知らないまま」漫画を読み進めるのと、根本的な差が生じるというわけである。

 これと似た現象が、少し前に大ヒットした「カメラを止めるな」でも起きた。観客はみな「ワンカット」撮影がミソであることを、ほとんどの場合知っていた。そして、この映画の場合は、「結末がどうこう」ということは、そもそもあまりどうでも良かった。

 しかし「ワンカット撮影とゾンビのからみの中で、なにかすごいしかけがあるらしい」ということに、誰もが興味しんしんになったのである。

 それがどんなしかけかはわからないけれど、「何かしかけがある」「何か裏がある」「何かが隠れている」と思うことと、それが一言で説明できないから口コミで広がったことが、大ヒットにつながったのである。


 今回のまとめは「人を引きつけるものは、情報の非対称性ではあるが、その一部を見せることで、より興味を大きくすることができる」ということである。

「知らせない」ことで儲けを生むのではあるが、「一部を知らせる」ことが起爆剤になる、ってことだ。


 次回以降はまた本編のシリーズにもどって、「知らせない」のだけれど「一部を知らせちゃう」というワザを応用すると、どんな風に「儲ける」ことができるのかも、いずれ解説しようと思う。これも実例付きでしっかり公開しようと思っているから、乞うご期待。

 

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