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SonnyBoy第9話考察「創作物に救われても良いんだよ」

設定やアイテムが全て心象風景

今回も8話と同じく心情や時系列の説明がまったくない。

何故この極北の世界にやってきたのか?アキ先生のグループと長良一行が鉢合わせしたのは偶然?

他にも、出てくるアイテム(レーザー銃のおもちゃ、朝風の子供部屋は自分で作ったのか?能力か?)はポンと出てきて説明のないまま消える。

これらは、物語・ストーリーのフォーマットで見ようとすると全くもってワケが分からなくなる。

これを紐解くには、一旦全てを舞台装置、作者の心象風景をダイレクトに伝えるために用意された小道具と考えると分かりやすくなる。

そして、その心象風景を読み解くテーマとなっているのは「毛」である。

毛が多いという驕り。

今回は毛に関するエピソードが多い。例えば、

誠司(毛の多い方)→荘(毛の少ない方):毛の一本で争う。

ネコ(毛アリ)→人間(毛ナシ):どこか見下している。

という関係がある。

この他にも、毛の話題としてあったのは

ネコのサクラ→瑞穂:いつまでも子供扱い。

瑞穂→朝風(動物→くまのぬいぐるみ・コピー):マウンティング

がある。また、言葉には無いが

荘(毛の少ない方)→ねこ

という狩る狩られるという関係もある。

(よくよく見ると鮭は切り身で、しかも焼き鮭になってる。ネコのサクラは人の手で加工されている不自然さに気が付かず、子どもだと思っている瑞穂の親として持って帰ろうとしたがゆえに、トラバサミに引っかかってしまう。)

そしてこれらとは別に

朝風→希

というサクラ→瑞穂のような執着の関係が出ている。

これらを数珠つなぎすると

誠司(毛の多い方)→荘(毛の少ない方)→ねこ→みずほ→あさかぜ→のぞみ

という風に全てがマウント構造で、一直線に繋がっていることに気づいた。

全てが蔑み・驕る方向で繋がっている。

荘がネコを捕まえた際、「まずそうな獲物だ。」とこれまた蔑んでいる。

そしてしきりに話に出てくるのが、生と死。今回は、毛の多い少ないという話題に生と死が絡みついている。

つまり、驕る側としては「上(蔑む方)には生があり、蔑まれた側は死んでいる」といった意識があるのやもしれない。

ただ、驕る側はそう思い込むことで何かを失ったり、見えなくなったり、気づけなくなったりする。つまるところ、驕る意識には何も無い空っぽだけが残る。

連鎖の終わり

ここで、それぞれの末路を追っていくと、荘は誠司に消される。

リバースリバース、スキップスキップ、「UNOだ」というコメントがあった。

つまり、アキ先生が来る前まではリバースしか手がなかったが、銃がスキップのカードとして渡されたことで、今回の終わらない戦いが終わり、山札として、生贄台に石が積まれたのだろう。

先にスキップを出してしまったがゆえに負けてしまう。先走りが原因となって負ける。それは荘の誠司に対する驕りだったからだろうか。

そして、荘は贄を必要とし、決闘の終わりに、神へネコのサクラを捧げようとしたところを瑞穂に「自分でどうにかするしかない」と言われてしまう。

本来、自分で勝とうとしていた戦いに、神に捧げるはずの戦いに、レーザ銃(神の御加護)という神の助けを借りるという本末転倒なことをしてしまったがゆえに、荘は虚しさを覚え、自身の消滅を取る。

神への祈りよりも、手段を選ばない勝利を取る、そうしたことで誠司は荘と同じく驕ってしまったのかもしれない。そこを瑞穂に

「生きてっから、何かに縋っても変わらないんだ。自分でどうにかするしか無いだよ。」

と諭されたが故に、アイデンティティ(神への祈り)が崩れて消滅したと思われる。

そして、ネコのサクラもまた、そんな瑞穂を見て自分の中の執着や驕りを思い詰めるのだろう、10話では隠していたコピーの能力をヤマビコを通じて教える。

そして他のメンバーは

・瑞穂:朝風にぬいぐるみで圧をかける。サクラを失いかける。

・朝風:希につっかかるも、更に遠ざかっていく。ぬいぐるみは幼児期から抜け出せたようで抜け出せていないことを示し、それを突かれ自己が揺らぐ。

ここは軽いものなので、起きる内容もまた軽めなのかもしれない。

そして、終端に位置する希は誰にも当たらないからこそ、うずくまってしまう。

そこに長良による逆方向のアプローチがあるが、それ以前にトラがいてくれたのも忘れてはならない。

今回ネコが人間並に話せることを見せたことで、ネコ側(毛あり)にも驕りがないものがいることを示している。

そうして、連鎖を断ち切るのが、逆側からのアプローチがあること、驕られる側が気にせず相手を気遣うとアプローチすることなのだろう。

また、この数珠の外にある存在として骨折ちゃんが居て、そんな彼女がつまらないと知りつつも、目的が朝風くんにしかないとしても(10話で判明)付いてあげるというのも、今回のアプローチの一つだろう。

最後に長良が「大きな穴だけが残ったね。」といったのは、そうした毛のある方から無い方への驕りによる怨嗟が、自身への報いとして変わって断ち切られたことで、全てがキレイさっぱり無くなったということなのかもしれない。

テーマ2「コピー」

つまるところ、コピーであることを長良が予め知っていれば、長良はそれを踏まえた上で、望んだ世界に照準を合わせて移動することが出来たのかもしれない。

では、今後その事実を知った(自分たちをそのまま返そうとしてもそこには先客、つまり元の自分がいるから帰れない)ラジダニがいるのであれば、それを長良に伝えて、自分たちがいなくなったという世界に対して自分たちを繋げてすぐに帰ることが出来るのではないか。何故それをしないのか。

ラジダニはそれをしても帰れないということが分かっていた。つまりその理由が、長良・瑞穂の能力や他の人の能力だけでなく、この世界の仕組みそのものにあるとするなら、旅立たざるを得なくなった。

まさしく8話で言う外にある問題を解決しにいったラジダニ。それに対して、長良は内側の問題を解決しようとする。

そして、ながらはこの漂流をなかったことにしたくないから、世界を回って発見して漏れが無いようにしてから帰ろうとしてるのではないかと思う。

大胆仮説

そもそも何故、漂流がおこったのか?

1話を見返すと、長良と先生の面談シーンで、希もまた他の先生と話しているのに、こっちのカーテンを開けて覗きにきた。

そして閉じると、また希が先生と話しているカットに切り替わる。

このシーンを整理すると、希が話している途中に、長良の方に来て、また戻るという奇行をしていることになる。

そこからまた、先生と普通に話となると、どう考えても不自然なのだ。

つまり、ここで大胆な仮説を立てると、希がすでにコピーされていて、そのコピーが覗いていた説が考えられる。

そもそも、今までの情報から整理すると、漂流のトリガーは希が長良を問い詰めたことにある(鍵がかかっていて、それでも逃げたくて暗黒空間へ行った説)。

6話の最後では、夏服の長良が屋上のドアを開け(鍵がかかってなかった世界線を表してるのだろうか?)、そのまま卒業となっている。

つまり、希が問い詰めなければ、鍵がかかっていなければ、漂流はそもそも起きなかった。

何故、希は問い詰めたのか?

少なくとも希(3年から帰国子女の転校生)と長良は始業式から8月16日まで、見たりすれ違うことはあっても話すことのない全くの他人同士である。

ただ、漂流する日の校門で、希は長良が鳩を見捨てたのを目撃している。

そこで目をつけて話しかけたのもあるだろう。

けれども、それ以前に希なら、長良の行動に何かしら目を付けるようなことがあっても不思議ではない。

と、これまでの情報から整理して考えると、漂流は誰かのお膳立てが無いと成り立たなかったのではないかと思う。

つまり、誰かが希をけしかけ、鍵をかけ、その他、漂流に必要な諸々の条件(コピーや朝風の能力)を用意したことで漂流がおこる。ではそれを仕組んだのは誰か?

物語では校長が神に選ばれ、起こしたとされているが、校長は誰に選ばれたのか?という疑問が残る。

そこで思考を変えて、6話で長良は未来の映像を編集できるなら、過去の映像があった場合長良はどうしただろうか?

と考えると、つまりこの流れを全部作ったのは長良ではないかという説が出てくる。

選択を託されて過去未来現在をどう作るかを決定する。編集により、時空が歪む(編集とは一地点から全ての時間を操る)というある種、進撃の巨人的なラストになるのではないかと大胆に予測してみる。

テーマ3「神について」

アキ先生は神の使いを語り、神の御加護である「おもちゃのレーザー銃」を荘に渡す。

これは89年製と思われる銃のおもちゃ。

つまり作者(夏目慎吾氏・1980年生まれ)の幼少期に製造されたであろうおもちゃが現れる。

それは、明らかに校長の世代のアイテムではないし、仮に世代であったとしてもおもちゃが出てくるのは何だか変(作者は「自分の好きなものを散りばめた」と語っている)。

それを決闘という大事な場面で手渡すアキ先生。

つまり、アキ先生にとっての神・この世界とは校長と異世界ではあるが、実のところ、作者とこの作品「SonnyBoy」そのものではないかと思う。

だからこそ、それを終わらせようとする主人公たちを阻止せねばならない。そして長良たちが帰ることは世界を終わらせようとする→観測しないから存在しなくなる。

今回でのアキ先生の狙いは、リバースではるか前に戻して、長良たちがいない時間まで戻して世界を作り変えようと考えたのでは。

だが、荘が祈る神の対象とは、相撲(神事相撲)から分かる通り、この実世界とも通ずる自然一般だった。

それが、神の御加護と称して80年代のおもちゃが手渡され、その作り物の神様(校長=作者)にすがり勝敗を決めようとしたのだから、祈りは成立しなくなる。

だからこそ、アキ先生の企みも失敗で終わる。

創作者は自分が作り出した世界において神であるが、そうして描き出した世界の中にも自然があり、その登場人物が祈りを捧げることは、この現実とどこまで変わりがあるのか?

この作品では作者が「これテン」で「量子力学を知ってるともっと楽しめます。」といった趣旨の発言をしたように、多様に物理学についての設定が盛り込まれている(観測者、重力、多元宇宙論)。

そして、それを用語を詳説せず、ビジュアルとストーリーだけで見せているのも、この作品を如何ようなる階層からでも見れる一因となっている。

そこで、9話の現象を読み解くと、荘と誠司は対生成・対消滅がテーマということになる。

対生成・対消滅は、真空で絶えずおこる粒子と反粒子の「生成」と「衝突による消滅」である。

そして、反粒子は数式上、時間を逆行する「粒子」として扱うことができるとされている。

ここでは、理屈よりもそうした知識を設定として借りて9話を紐解いて見ると

つまり、リバースリバースは現実世界でおこる現象を指し示している(順行と逆行を絶えず行うことで、現状の空間が保たれる)。

そして、実際の粒子と反粒子は、どちらかが残ってしまうとエネルギーの均衡が破られる。ブラックホールではその際の反粒子により質量が減少する。

この均衡の破れによる力を利用して、無(真空)からエネルギーを取り出せることができれば核融合以上のエネルギーを得ることが出来る(E=mc^2で質量を全てエネルギーに変換できるが、核融合はどうしても物質が残る)。

つまり、今回の話の片方を残すことで、その莫大な力で世界をもとに戻すことさえ出来るという設定とリンクしているのである。

だが、それは現実でも、現在では到底夢物語のような話(出来たとしても得られるエネルギー以上に投入するエネルギーの方が遥かに多くて意味がない)である。

そして、この9話においても作り物の神が手を加えても、結局後には何も残らなくなる。

それは、ひとえに瑞穂が

「生きてっから、何かに縋っても変わらないんだ。自分でどうにかするしか無いんだよ!」

と荘に訴えことが大きい。

本来ならば、漂流前まで元に戻せるならば、ネコを犠牲(といってもネコもコピーのはず)にしても帰るべきだった。

だが、瑞穂は長良と同じくこの漂流を無かったことにしたくなかったのだろう。

だからこそ、この漂流で”生きた”ことを「無かったこと」にしたくないから訴える。

リバースに縋り、元に戻して、今までの漂流を無かったことにする。

今の自分で帰りたいからこそ、自分でどうにかしようとしている。

そう訴えられたことにより、荘は今の自分を振り返り、自身の祈り(自然への)の核を失ったことを実感し消滅した(勝ったが、祈っていた頃の自分はいなくなった)。

また、瑞穂の訴えはアキ先生や神にも向けられているようにも思える。

神やアキ先生がもとに戻そうとするのは、世界を脅かす存在(長良、戦争)を根本的に排除したいという目論見があるからだろう。

それに対し、瑞穂は長良と同行するも自身は能力を使っているわけではない。

つまり、主体的に世界を壊す存在にはなりえない、ただの1コピーにすぎない。

だからこそ、この場面では長良・希ではなく瑞穂が言ったのが良かった。

世界の創作者たる神とその使いもまた、今回のテーマ「毛」と同じく、上から見下ろして好き勝手しようとする(どうやら自分たちでは出来ないから、資本力で能力を得ようとしている?)。

それは、「こりゃ上手くいかんからやり直しだな。」とすぐ変更したり、無かったことにする作り手への訴えでもあると思う。

まさに登場人物がひとりでに作者の手を離れて歩きだしていると言える。

(あえてそういう風に、神にも制約を付けさせて、登場人物がどう自我を獲得していくか見ている?)

つまり、作り物(コピー)だから下、本物だから上といった関係などなく、どこにあってもそこで生きていることは否定できないということなのかもしれない。

毛が多いか毛が少ないか。

本物であるかコピーであるか。

元の世界か漂流世界か。

現実であるか創作物であるか。

あらゆる対の構造は、生成と消滅を繰り返す(作品の誕生、放送期間の終わり、コンテンツの忘却)。

その中で、「アニメばっか見てないで」「リアルで恋愛しろ」といった意見があったり、自分の中でさえ「作品を創っても現実には何の意味もないんじゃないのか?現実で何かしないといけないのでは?でも自分ひとりで何が出来る?」といった対になる存在への懐疑を向けてしまうことが往々にしてある。

そんな、思いに対して向こう側から

「生きてっから、何かに縋っても変わらないんだ。自分でどうにかするしか無いんだよ!」

「君がヒカリを見せてくれたから」

といった逆側のアプローチがあるからこそ見てて救われるものがあった。

だからこそ、「自分が見下げてるものに助けられるなんて、そんなのありえない!」と思っているそんな向こう側から、思いがけず助けてもらっても良いのかもしれない。

どっちもあって良いのかもしれない。そう思えた。

まとめ

9話はそうした自然と生まれる対の関係、ひいてはそれによる関係の連鎖(「毛」でいう驕り)があった。

そして、その連鎖は逆側からのアプローチによる救いがあって消滅した。

もしかしたら、8話でのヤマビコの後悔は、もしかしたら今回の逆アプローチがあったら解決していたのかもしれない。

だからこそ、8話あっての9話。

8話で、長良の「僕にも出来るかな」に対して、希に

「僕は君のおかげで変われたから、
 君がヒカリを見せてくれたから、
 帰ろう。           」

と話しかけることに繋がった。

つまり、8話における周りの人・社会・作品に対するあらゆる苦悩・問題に対して、向こう側から救われることがあってもいいんではないか、そこから自分でどうにか出来るなら、ということなのかもしれない。

そして、それは平行にあって、いつでも行ったり来たりしてもいい。

そこからまた歩き出せるなら。


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