シン・地代(レント)論
朝、目が覚めてテレビをつける。
大手の法律事務所が、カードローンの借り入れ金利の還付金が戻ると宣伝している。自分の財布にも何枚か入っているはずだ。電話するだけで戻るなら、一度してみようか。
遊ぶ金を工面するためだったらまだよかったのだが、奨学金を返すために仕方なく一時的に借りた金はいつの間にか50万円ほどに膨らんでいる。
昨日は日曜日だったが、貴重な休みを個人的にお祝いするためストロング系酎ハイ500mlを3本空けてしまった。おかげで、少しだるい。1本100円で買える僕の救世主だから悪くは言えない。
僕の借りているこの駅から徒歩15分の小さなアパートの前にある、いつもゴミが散乱しているゴミ捨て場には、袋いっぱいか、そのまま放り出されたストロング系の空き缶が転がっている。荒れ方はだんだんひどくなっている。ウイルスでの外出自粛の時には、一層増えていた。
さて、嫌な嫌な月曜日だが出社しよう。
世の中ではリモートワーク花盛りだが、派遣の人は出社してくれの一言で、僕たちは出社せざるを得ない。
僕と彼らとどこで線が引かれたのか、正直わからない。でも、そんなことを誰かに言っても、「君が頑張らなかったからでしょ」と言われるのがオチだ。答えのわかっている愚痴を言い合ってくれる友達も少ない。
僕の大学の同期でも、一部上場に就職できた友人もいるので、自己責任を持ち出させるのもしょうがないのかもしれない。きっと僕の努力が足りなかったのだろう。ゼミの先生も、何もしてくれなかったので、奨学金を借りてまで大学に行った意味ってなんだったんだろうかと思わなくもないが。
出かける前に、海外ドラマのダウンロードを済ませておこう。ギガを節約しないといけないし、何よりこれが数少ない僕の娯楽だ。月800円で動画が見放題なんて、いい時代だと思う。
さあ、会社に行こう。正確には派遣先、だけれど。しかし、去年と今年の給料も変わらなかった。派遣会社はそのうち昇給もあるよとか、正社員登用もあるよとか言い続けているけれど、このウィルス不況でそんな言葉すら出なくなった。仕事があるだけありがたいよな、と思うしかない。
ワクワクすることはないけれど、今日も何とか生きている。それで十分じゃないか。
この物語の中には、一人の人間が出てくる。しかし、彼の人生は彼のために(ほとんど)使われていない。もう少し言えば、彼は彼の時間を自分のために使うことができない。彼の生活は、彼以外の誰かに常に掠め取られている。
彼の生活を、彼の人生を掠め取るシステムを、経済学は「レント(地代)」と呼ぶ。
地代という言葉が示すのは、彼が借りているアパートの大家が彼の人生を掠め取る存在だろうか。確かに大家は古典的なレントの持ち主である。しかし、この彼の朝の風景の中に登場するレントの持ち主はアパートの大家だけではない。
彼は、ある派遣会社に登録し、どこかの会社に派遣されている労働者のようである。彼の労働力という権利は、本来彼自身のものであり、彼の労働力の売買の権利は彼にだけ処分権がある。その権利を会社に売ることで、多くの労働者は今日を生き延びるための幾らかのお金を手に入れる。しかし、彼は今、自分の労働力の処分権を派遣会社に渡している。
派遣会社は、自分たちが売るものを準備するのではなく、登録された労働者の労働力を、他の会社に売ることで生計を立てているが、その労働力は彼らが作ったものではない。
彼らはただ、自分たちが労働力を右から左に差し替える免許を持っていることで、永遠に働き手から金を掠め取る権利(レント)を持っている存在なのである。
彼は、奨学金を申請して大学に進学したようである。その返済が毎月ある。独立行政法人日本学生支援機構という公的団体は、日本の高校生から大学生、大学院生を中心に1兆円を超える貸付を行なっている(令和元年度;正確には1兆485億9千万円)。そして、毎年7000億円の債権回収を行なっている。つまり、過去の奨学金を借りた人たちから集めた金が毎年7000億円ほどあるということである。
奨学金は英語で言えばスカラーシップである。これは辞書的な意味では、「給付型」奨学金のことを指しており、貸与や返済の義務があるものは、一般的にエデュケイショナル・ローンと呼ばれる。
また、例えばアメリカでは教育ローンの利子支払いに対して、税額控除の対象となるなど、税金の免除の面で政府によって負担への「配慮」が存在する。しかし、著者らも奨学金を返済しているか、した経験を持っているが、日本において奨学金に対する税制上の優遇措置は「一切ない」。
金は貸してくれるが、それは普通の借金と同じように取り立てられるし、それについて税制などを通じて返済を事後的に救済する仕組みがこの国にはないのである。一方で、住宅ローンを組むとそのローンの残高に応じてであるが、現在、年間50万円の税制上の控除を10年間受けることができる。
高額の住宅ローンを組める富裕層に対しては、税金の免除があるにも関わらず、奨学金を借りてしか進学ができない世代と階層の人々は、言われるがまま「リレー制度」と表現される責任の論理で展開される借金を、誰にも頼ることなく返済し続けなければならない。
また、奨学金の返済が滞ると、その情報は「信用情報」に蓄積されるので、例えばスマホを分割支払いで買おうとしても断られたり、クレジットカードの登録ができなくなったりする。
では、そうまでして利子を取り立てて、金を返さなければならない理由はなんなのだろうか。日本の公的団体がおこなっているこの奨学金という名前の借金は、政府の関与、つまり税金による関与がなされている。その意味で、借金の貸主は国民であり、借金は国民に、あるいは学生支援機構の説明する「リレー制度」として、後輩たちに引き継がれる、その財源として必要なのだと説明する。しかし、日本学生支援機構は、実は借金をして奨学金ローンの財源を捻出している。この借金の名前を財政投融資債という。簡単に言えば、財務省の一部門が行う公的な借金である。この借り主は、多くの場合日本の国内の金融機関である。つまり、私達が必死に、「後輩のため」、自分の責任でと美名のもとに駆り立てられて返済している金は、国の債権を買えるだけの金をもっている(資源や権利を独占し)国内の銀行に対して支払われる利子(レントの一種)と元本支払いに費やされている。
そして、利子払いにたいして、払いすぎた利子を取り戻すと宣伝する大手法律事務所の宣伝にもレントが隠れている。これは、法律業務を実施できるという権利を背景とした、レントの徴収といえる。
もともと、消費者金融がいわゆるグレーゾーン金利という名のもとでとっていた法外な利子収入が貸金業法において認められているのは問題であったにもかかわらず、放置されて来たことに対して、前東京弁護士会会長の宇都宮健児弁護士が30年来行ってきた消費者金融を相手にした訴訟と市民活動が結実した結果、2006年に貸金業法が改正された。
この結果、グレーゾーン金利は違法となり、実際の貸付金利が適法金利と離れている場合には、その差額分の利子払いを借り手が請求できることになった。
この事務手続きは極めて簡単なため、弁護士や行政書士といった法曹業務に関わる事業者にとって、一種のレントが提供されてしまった。宇都宮弁護士の「法律による市民生活の向上」という公的な目的にもとに行われた運動が、一部の事業者に対するレントに転換してしまったのは、現在の社会の皮肉という以上に、「レントの力学」が強固かつこの社会の隅々にまで浸透していることを如実に表している。
少し古い漫画になるが、「ハチミツとクローバー」という少女マンガで、主人公の一人である森田くんの兄である森田馨は、ICTを中心としたコンサルタント会社を経営している風に描かれている。その中で、印象的なシーンが有る。馨の秘書が、彼に「世界中のF2層から毎月300円ずつお金を集めるビジネスを思いつきました」と声をかける。それに対して、笑いながら、「それ500円にならないかな」というやり取りが交わされる。
現在のICTビジネスを考えると、500円はずいぶんとささやかかもしれない。
スマートフォンで様々なサービスを受けるために、私達は数多くの「サブスクリプション」サービスを契約しなくてはならない。
先程の彼も動画配信サイトのサブスクリプションを契約しているようである。月800円で多くの作品を楽しむことができるサービスは一見、庶民の味方であるように思える。しかし、GAFAといったサブスクリプション提供企業が巨額の利益を集めていることは、現代ではあまりにも当たり前となった。2019年最終四半期の純利益は4社で4.7兆円に上る。
パナソニックは日本を代表する企業であるが、2019年度の年間の最終利益は2000億円程度に留まる。
GAFAといった企業が、どのように利益を集めのであろうか。先程の馨たちの会話にヒントが隠れている。かれらは、家電のように一回に大きなお金が必要なビジネスではなく、広く薄く長く、仕組みを使って全世界からお金を集めるのが彼らのやり方である。その仕組は、ICTサービスによって構築される「プラットフォーム」である。この「プラットフォーム」を使用する代金として請求されるのがサブスクリプションの月額料金ということになる。プラットフォームとは、権利を独占した企業が、多くの人々からレントを巻き上げ続ける巨大な歯車のことである
GAFAといった世界的な企業が、天文学的な高給でエンジニアたちをかき集めることができるのも、このプラットフォームによって巻き上げるお金が極めて多額に上るからであり、また、「その歯車が止まらずに動き続けることを」世界中の投資家が期待しているためでもある。
我々の生活は、世界中のレントをかき集める権利を持つ者たちに掠め取られている。そして、新しい「レントの権利」を日々どうやって生み出そうするかに、世界中の企業が注意を向けている。
政府は、本来規制や分配を通じて、このような不平等な権利の配置を改善し、一方的なレントの取り立てを調整する形で機能すべきである。なぜなら、レントの一方的な集中は、一度成功した企業や富裕層の力を強化し続ける結果、それ以外の人々に不平等なゲームを常に強いることになる。
豊かな家に生まれた子供は常にチートが効いているが、貧乏な家に生まれた子供は決して超えられない高い壁が常に立ちはだかる。このような状態を調整するために、政府や国家が存在するはずである。しかし、現在の政府ではその機能を期待することは難しい。
例えば、先程から見てきたように派遣労働者という、1990年代までにはほとんど存在しなかった働き方が今、これだけ一般化したのは政府がおこなった「規制緩和」のためである。労働紹介業務は、人の生活に直結するため、それによって収入を得る事業は、人々の幸福な生活のためには「規制されるべきである」という考え方が、かつてあったのである。それを、一部の企業に「下げ払う」ことによって、利益を確保しようとする人々が1990年代終わりから2000年初頭にかけてその規制を大幅にゆるめてしまった。
規制緩和というポジティブな名前で語られるそれは、政府の意思決定に参加できる一部の特権的な立場の人間たちが行える「自分たちにレントを食べるための権利をどうやって政府あるいは公共から剥ぎ取るか」、という破廉恥な活動の別名に過ぎないことが明らかとなってしまった。
成長の果実は、レントを食べる人たちにしか与えられず、大部分の人々は、レントを貢ぐ新しい奴隷階級に貶められた。そして、レントを食べる立場になるのは極めて難しく、その数も少ないにもかかわらず、転落するのは極めて容易になってしまった。
そして、レントを食べている人たちは、それを貢ぐ人々に対して、「いつでも努力すれば自分たちと同じような立場になれる」という、誇大広告を宣伝し続ける。その椅子がほとんどないことを、彼ら自身もうすうす知っていながら、嘘を誠と自分自身にも言い聞かせる不誠実が世の中に蔓延している。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?