成瀬巳喜男,シンエヴァンゲリオン


シン・エヴァンゲリオンをアマゾン・プライム見て納得できない感情のまま、成瀬巳喜男の「稲妻」を見る。納得できない映画を見た後、私は成瀬の映画を見ることが多い。成瀬巳喜男は世界的に評価されてる映画監督で、うるさ方のシネフィルにもすこぶる人気が高い作家である。例を上げれば、蓮實重彦。
ここで成瀬は学校の校庭にある踏台の上に二人を座らせ、その距離を会話の進展につれて近づけたり遠ざけたりする動きとともに、その場面を二人の切り返し、そして最初と最後に簡潔なロングショットで二人の姿を収めるという演出をしているだけなのだが、こんな何気ない出来事が映画の対象となりうることを発見し、しかもこれだけ充実した場面に仕立てあげることができたのは、映画史において成瀬だけである。
蓮實重彦はいつものようにショット、ショットと繰り返す。ショット以外見るものなど映画に存在せず、物語だの、時代背景だの、歴史的意味とかを言う映画評論家は素人だと決めつける。蓮實が影響を受けたジル・ドゥルーズの映画論は、同じように映画の表層こそ豊穣であり、映画に深層があるなど幻想に他ならないと嘯く(うそぶく)。フランスのポストモダンの批評は、神=深層が死んだ後に残るのは薄ぺらい人間だけであり、資本主義的消費だけが、その存在意義を担保するという思想である。
Barbara Kruger-I shop therefore I am.
話を成瀬巳喜男に戻そう。ここで取り上げるのは成瀬の「稲妻」という作品である。主演は高峰秀子、母親(浦辺粂子)は4人の子をもうけ(1男3女)るが、いずれも父親が違う。清子(高峰秀子)は末っ子。上の姉・縫子(村田知英子)金にがめつく自分勝手、二番目の姉・光子(三浦光子)は気が弱く、夫を亡くしたうえ、兄弟や夫の愛人から保険金を当てにされる。兄の嘉助(丸山修)は戦争での負傷を言い訳に、定職に就かず、日々パチンコに明け暮れている。そこにパン屋を営んでいる綱吉(小沢栄)資産家が入り込み、縫子には渋谷の温泉宿を、光子には神田の喫茶店を与える。二人と関係を持った後も、清子に固執して言い寄る。話は家族の愛憎ドラマの様相を呈しているが、私の関心はそこにはない。簡単に言えば、出てくる男が全てクズだということである。清子(高峰秀子)がバスガイドをする脇役のバスの運転手さえも、清子をからかうだけのクズである。成瀬巳喜男の映画に出てくる男はすべてクズだと言っていい。なぜクズなのか、戦争に負けたからである。負けただけであれば、それ程男はクズにならない、敗戦した後、日本男子はその反省も分析も放棄した。アメリカによって免除されたと言ってよい。ソ連の脅威、アメリカ本国から余りに遠い距離的位置、共産主義台頭、従順な国民性などなど、アメリカは日本人を弾圧するより、去勢した方が得策と考えたのだろう。そのあとアメリカのCIAは朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン侵攻とことごとく失敗する。彼らは去勢されるなら死を選ぶのである。

成瀬巳喜男は映画を作る際、そんな事は微塵も考えなかっただろう。しかし映画の無意識は成瀬巳喜男に敗戦で、いかに日本そして男がクズになったかを、表出=revelation =天啓(キリスト教 )させる。日本は反省も分析も放棄した替わり(戦争責任を戦犯にすべて押し付けた)、何を受け取ったか?安心、安全、便利である。日本が世界に誇る観光資源である。アメリカ軍は驚いたに違いない、敗戦と同時に武装解除、アメリカ万歳となる国民を不気味さえ思ったろう。実際、日本軍の捕虜は、日本軍の機密情報を聞いてもないのにべらべらと米軍に話したという。
宮台真司が指摘するように、日本国民は、一夜にして鬼畜米英から欧米万歳、天皇主権から民主主義、原発推進から原発反対、まるでカードをめくるよに反対の顔=表層を見せる国民。三島由紀夫はそんな国民を嫌悪し、昭和天皇の代わりに切腹をした(当人にそんな意志があたったか、無かったはどうでもよろしい)。文学=国家という無意識が三島に腹を切らせた。漱石の「こころ」の先生も、乃木希典の殉死したように、自殺する。時代錯誤だと当時の世間は、三島を乃木希典をあざけた。人は言う、時代が変わったのだと。人心とは移ろいやすく、当てにならないものだと、今のポピュリズムを見れば、明白であると。流れに乗らなくては損をすると。吉本隆明が、戦後まもなく、ある男に会った時「これから儲けどきでっせ、しっかり世の中を見ないとあきません」と言われた事にショックを覚えたという。吉本隆明も三島と同じく、日本帝国軍の勝利を信じ、本土決戦まで行うと信じた男子である。
ところが人民は違う、カードゲームのように戦争が終われば、鉄火場はお開きになり、元の日常に戻るしか方法はない。いつまでも戦争という深淵=意味には佇むことはできない。
少しだけシン・エヴァンゲリオンについて話そう。主役は碇シンジから碇ゲンドウに移された。初期設定から、碇ゲンドウの妄想に始まり、妄想で終わることは容易に考察できることであるが、庵野秀明のミスリードによって碇シンジが主人公のように観客は物語を追う。そして最後に碇ゲンドウがラスボスとして独白するのだが、文学を多少でも読んでれば、それは見え透いたトリックであることがわかるのだが、アニメ・ファンはまんまと幻惑された。
そして碇ゲンドウも成瀬巳喜男の男たちと同じく、クズ中のクズである。そしてシン・エヴァンゲリオンは碇シンジと碇ゲンドウの和解、庵野秀明と25年連れてそったファンとの和解、昭和、平成、令和と戦後75年の分析、責任も取らず終焉する。
成瀬巳喜男の予言は的中する。日本人男児はクズのまま延命すると。碇ゲンドウ=庵野秀明は、ポストモダンの作法にそって表層に留まる。カードの裏表に意味はない、どっちが出るかは偶然である。
溝口健二は成瀬巳喜男について「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマが有りませんね」[と評している。
それはそうだろう、日本人男性は敗戦と共に去勢されてるのだから。
終焉。

P.S
シン・エヴァンゲリオンの別な終わりは方、綾波レイ=ユイが碇ゲンドウを抹殺すること「わたしはあんたの玩具=母親じゃないのよ」

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