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インターネットとよはとつ図形

よはとつ図形とは、橘川幸夫さんが『企画書―1999年のためのコンセプト・ノート』1997/6/1で書いたものだ。2024年になって、改めて橘川さんの講義を受けて感じたメモとして感じたことを残しておく。

最初に「よはとつ図形」に触れたのは20年ほど前だろうか。そこから幾度となく思い返してきた。

そうか、とどまり、つながるのかとというメタ認知に近い気づきを得ながら、90年代後半から2000年代初期のインターネットもそこに関わる人の初期衝動に触れているとそんなつながる時代が来ることが想像できた。

2004年にmxiが日本でも立ち上がりその後のSNSの広がり、2007年にiPhoneが登場し、手の中にインターネットができてインターネットが「当たり前」のものになった。2008年には日本でもTwitterが始まり更に加速した。これはますます!と思ったのも確かだが、しばらくして感じたのは、テクノロジーは進んでも、人間は旧来の価値観のママだと言うことだった。2009年に『ウェブはバカと暇人のもの』と中川淳一郎さんが言ったのは言いえて妙だった。それでも、Webの未来を考えたいと、2010年からWebの未来をまる1日考えるWebSig1日学校という参加型イベントを4年に渡って開催してみたりもした。

インターネット初期では、人の衝動と書いたが、インターネットを使うことそのもののハードルが高かったので、すでにそこに参加する人たちはフィルタリングされていた。知識や技術的なオタクということではなく、なにかわからないものに衝動を感じる人たちが圧倒的な時間とお金をつかっていたということくらいなものなのだが。事実私が自分で開いていたWebチャット(懐かしい)にも現役教師から中学生まで様々な人が24時間いた。

そこには、とどまるとつながる片鱗が見えたような気がするが、「あたりまえのインターネットの時代」では、その感覚がどんどん薄くなっていった。
落胆した。さらにトランプ当選やコロナ禍での国家が強い壁をつくったことや戦争でも同じような感覚を持った。

西洋OS、資本主義の中で生きている私たちが、その名の通り「生きていく」という中で「豊かさ」は避けても避けられない。ファクトフルネスよろしく、確かに世界は豊かにはなっているのだけれども、まだ足りないのか。

自分で会社をやってある意味自由にしていける立場においても、いや、だからこそ、「よはとつ」が示すような未来と現実的で合理的な判断との二項対立のようなものにずっと悩まされてきた。

これは今もだが、ここでも「端境期」ということで捉えるのがいいのだろうな、ということ。グラデーション、または、人生のおいて1つの価値観、ベクトルとしての大局観としてはもてど、振り子のように過ごしていかなければならないのだろうなと改めて感じた。できれば、つながるほうの価値観だけで生きていければとも思うし、そういった場をつくっていければとは思うのだが。組織で言えば、ティール組織や自己組織化はこのような流れなんだろう。

もう1つ、インターネット20年の中で感じたのは、インターネットは人を孤独にしているということだ。これはなんだったんだろうなぁとうまく消化できないでいたのだが、はじけた人がインターネット上でまたよりそい、意識として満足できなかったんだなということに気づけた。もう1つは身体性の欠如だろうか。

Web3の概念や、2022年のChatGPT以降、いままた、テクノロジーは人類を置き去りにしながら、加速度的に進化していっている。また先端の人の衝動とテクノロジーが時代を一歩進めそうに思う。数十年単位でこのようなイベントが起こる時代に生きていることがおもしろと感じながら、つながる時代を意識していきたい。

個人的メモなので、最後に文脈を飛んだメモを残すと、テクノロジー以外にもう1つ期待しているのが幸福論としての仏教だ。

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