解釈的不正義を是正するには?

 解釈的不正義とは、 英米圏の哲学者ミランダ・フリッカーが提唱した認識的不正義のひとつの形態であり、物事の解釈に関わる次元での構造的な不正義である。具体的には、かつての鬱病に対する思い込みだという発言のような、それを言い表す言葉や経験がないことを原因とする不正義のことを指す。このような解釈的不正義は、社会的経験と呼ばれる、社会に共通する経験の不足によって引き起こされることが知られているが、もちろんそれだけが原因ではない。
 同じく英米圈の哲学者であるホセ・メディナは、解釈的不正義の責任を、マジョリティが形成する文化に問う。つまり、マジョリティが、マイノリティの経験を認めない、理解しようとしない、ということが問題なのであり、メディナはこれを「故意の無視」と形容して断罪する。

 上記の議論を引き受けた上で、解釈的不正義を是正するにはどうすれば良いか、考えたい。
 まず、メディナの議論を踏まえるなら、マジョリティに理解する姿勢をもたせる、という是正策が考えられる。しかしこれでは、現代社会が直面している大きな別の差別に行きあたる。すなわち、マイノリティの周縁化である。現代社会では、「多様性」という言葉で、マイノリティの尊重を声高に主張し続けた。その結果、LGBTQを初めとした、かつてマイノリティだと看做され、不正義を蒙ってきた多くの問題が、徐々に解決し始めたという事実がある。しかし一方で、「多様性」という言葉で理解されなかったマイノリティ、これはマイノリティの中のマイノリティを指すのだが、これが以前より周縁化されてしまったのである。
 結局「多様性」という言葉は、マイノリティの中のマジョリティをマジョリティに引き上げることにしか成功しておらず、残されたマイノリティは以前に増して日の目を見ることがなくなってしまった訳だが、では、この問題はどのように是正されうるのだろうか。
 ここで注目したいのは、ドイツの哲学者ハンナ・アーレントの「活動」概念である。活動とは、多数の人々の間での言論、語りのことを指しており、この活動を通して我々人間は、ひとりひとり違った個人であることを示すのである。アーレントは、ユダヤ人というマイノリティコミュニティに属していながらも、この活動を実践するかのような振る舞い(ユダヤ人への侮辱発言をした教師の授業を集団ボイコットする等々)を通してマイノリティとしての自己を主張し続けた。アーレントは活動することによってのみ、人間は政治的な存在になるのであり、活動しない人間は「死んでいる」ということを古代ギリシャの語法から暗示している。
 アーレントの活動概念は、マジョリティにマイノリティの理解を促すという「待ち」の姿勢ではなく、むしろ積極的にマイノリティの社会経験を発信するという「攻め」の姿勢に裏打ちされている。しかしこの議論からマイノリティは活動するべきだと主張するのは、あまりに性急すぎる。というのも、ここではマイノリティの脆弱性が考慮されていないからである。

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