向いていること、向いていないこと

今日の政治を形成しているのは、自由である。

フランス思想界最後の現象学者を誤読すること(東風に誤配と言えば良いのだが)からはじまった多様性の時代は、といってもその過程でより多くを占めるようになったのは政治性なのだが、そこで目指されているのが何かを自覚しないまま、各人をその無前提性において肯定するという途を辿ることになった。そしてこの肯定は、自由への肯定と同じ意味をもつものとして理解され、その反対側で不自由な人々の解放が叫ばれるようになった。

とは言うものの、実際に解放されるべき不自由として認められたものは、まず思考の不自由であって、次に価値の不自由であり、最後は続くことがなかった。身体の不自由の否認は、性の問題にも色濃く現れるものであるが、より顕著に現れるのは障害者の問題である。彼らが奪われているのは、より根源的には思考の自由でも価値の自由でもなく、身体の自由である。

自由とは、暴力である。

フランス思想界最初の現象学者によって記された「自由の刑」の比喩に示唆されているように、自由とは本来暴力的なものである。同じ哲学者は、人間の本性を「自由=無」という定式で言い当てて、実存が本質に先立つ人間は何者にもなることが出来ないということを帰結させたが、私にはこれが全てのように思われる。

となると、現代に残された最後の希望、自由の暴力から唯一免れたものは、身体である。不自由なものとしての身体は、いわゆる主観性の哲学の限界として機能した歴史があるが、同じことを現代の政治に試みたい。つまり、自由を標榜する世に対して、「向き不向き」を問いたいのである。

「向き不向き」の身体性とは、思考・価値の身体性である。

思考と脳の関係、価値とからだの関係が、「向き不向き」の身体性の次元に対応する。もっと言うと、遺伝子そのものが「向き不向き」の身体性であると考えればわかりやすいかもしれないが、いずれにせよ、この観点は、人間を身体によって限界づけられたものとして理解することによってはじめて得られるものである。以前記した「白紙と刻まれたもの」の関係に通づるこの途は、「向き不向き」の感覚が一旦生得的なものとして与えられ、それを「環境=構造」的なものによってより確かなものにするということを暗示している。身体は生まれた時には既にあるものであり、また生まれる場所を選ぶことが出来ないのだから、「向き不向き」の感覚は結局運命に委ねられたものであり、またそうした運命の所与を積極的に受け入れることで初めて通ずる途というのもある。

昨今の「なりたい自分になる」、「周りの期待に答える」という政治的な言説(これらの言説が政治的なものであることを理解している人がどれくらいいるのかは知らないが)が陥る病的な不幸は、結局は自由という幻想にかられて「他人という地獄」への途を盲目的に進み続けることに由来するのであり、別の途を歩むには、「向き不向き」の身体性から世界を見つめ直すこと、俗っぽく言うと「ありのままの自分を認めた上で、世間を上手く渡ること」の他にないのである。

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