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娘の顔を忘れる

3ヶ月半ぶりに見る母は、予想通り表情を全くなくしていた。
朝9時に空港に着いたその足で施設に向かう。
面会は再開されたものの、玄関を入ってすぐの靴を履き替えるスペースと、さらにその先のロビーを仕切っているガラスの自動ドアをはさんだ「ドア越し面会」だ。
玄関を占有してしまうので、あまり長い時間を取ることもできない。
会話は電話。直接声をかけても聞こえなくはないだろうが、特に母は耳が遠いので難しいだろう。

しかし、聞こえる聞こえないの問題でもない。
私の顔を見ても、一緒に行った孫やひ孫たちの顔を見ても、笑うわけでも泣くわけでもなく、ただ不思議そうにこちらを見ている。
付き添ってくれた看護師さんが受話器を耳にあててくれても自分で持とうとはせず、「お母さん!」と呼んでも反応はなかったし、結局ひと言も発することはなかった。

私はある程度予想していたので衝撃というほどのことはなかったけれど、次女は1年9ヶ月ぶりの再会だったので、あまりの変わりように子どもたちに見られないように泣いていた。

ヘルパーさんではなく看護師さんが付き添っていたのは、母の体調が安定していないからだ。前の施設から移動してきてから続いていた徘徊のような行動は収まったものの、食欲がなくほとんど食べていないのに吐く、脚がむくむ、37度代後半の発熱が続くなど、原因のよくわからない不調が続いているそうだ。
クリニックが併設されているので既に医師の診察は受けていて薬も処方されているけれど、近いうちにまず血液検査をするということだった。

急速に認知症が進んでしまった話をすると、多くの人が「コロナで会えないからね」とか「外に出られなくて刺激がないしね」とか、行動制限のせいだと言う反応がほとんどだ。
もちろんゼロだとは言わないけれど、母の場合はそういうわけでもないような気がしてならない。
母が生まれ持っていたエネルギーが使い切られて底をつき、認知も身体も風船がしぼむように、あるいは砂の城がサラサラと崩れていくように、終わりを迎えつつあるというのがしっくりくる。

一方で父は車イスで現れたものの、顔色もよく入所時よりも少しふっくらした印象で、反応もよかった。杖も持っていたので、自分の部屋や居住階では歩いて移動しているのだろう。
ひ孫たちに手を振り、うまく話せないながらもヘルパーさんに「(この子たちは)小学生だ」と説明しているようだった。
ガラスドアをはさんでひ孫たちと写真を撮ったときにも動くほうの左手を挙げてみたりして、高次脳機能障害の診断ながらシチュエーションに合った行動もきちんとできることに驚いた。

私が「お母さんと一緒に居られるようになってよかったけど、ボケてしもてお父さんが世話せんといかんね。」と声をかけると、困ったような笑ったような表情をして頷いていた。でも泣かなかった。
元々涙もろい人で、倒れてからも人の顔を見るたびに泣いていたのに。

前にも書いたけど、やっぱり父はこうなることがわかっていたんだと思う。
そして母の世話は自分でやろうと決めていた気がする。
実際、要介護5認定の父が、現状では要介護1認定の母に食事介助をしている、と施設長さんが言っていた。

実家に着くと居間の固定電話の横に母のスマホが電源が切れた状態で置かれていた。おそらく3月11日の入所前にヘルパーさんが来てくれたとき、もう使わないからと置いていったのだろう。ケアマネさんから「電話に一切執着しなくなった」と連絡があった後だ。
執着もなにも、あの様子だと使い方を忘れてしまっていたのかもしれない。
だから、3月18日の母の誕生日に私が送ったLINEは未読のままだったんだな。

アルツハイマー型の認知症は新しいことから忘れていくという。
母は診断を受けたわけではないが、夏〜年末の様子を見るとおそらくアルツハイマー型なのではないか。
だとしたら古い記憶なら残っているのかも、と、弟と私が生まれたとき〜1歳頃までのアルバムを探し出して施設に預けに行った。
私は忘れても弟のことは覚えているかもしれないし。
別にそんなことはもうどうでもいいけれど、父と一緒にアルバムをめくって、何か一つでもひっかかるものがあって、2人で同じものを思い出せる時間が1回でもあればいいなと思う。


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