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バーマリモ#創作大賞2022

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「マリモには男女とかないの。暗い湖の底でも、太陽の光を受けて成長する不思議な生き物なんだって。」とマリモちゃんは言った。

マリモちゃんの本名を私は知らないが、昔からの常連さんが「とおる」と話しかけているのを見たことがある。

古ぼけた黒い錆色の街頭が並ぶ商店街。
ふわふわと大きな粒の雪が地面に落ちては消えていく跡をなんとなく追いながら、ポツンポツンとひとつ飛ばしくらいに、シャッターの閉まった店たちを通り過ぎる。
利根川にかかる細くて赤い橋へと商店街を裏手に曲がったところに、マリモちゃんのお店はある。

薄暗い階段を地下へと降りると、真っ白に塗られた木製のドアがひとつ。麻の暖簾には「バーマリモ(ごはんもあります)」と右下に小さく走り書きみたいに書かれている。見慣れない奇妙ないで立ちだが、中が見えないことへの威圧感みたいな怖さはなくて、ふらっとドアノブに手をかけたくなる清々しい軽さみたいな雰囲気がある。

「ただいま、マリモちゃん。外寒い、雪が降ってきたよ。」
「そうだと思った。さっき暖簾をかけに出たら、鼻がツンとしたから。部屋の中はぼわぼわするのに。」

マリモちゃんの声は男の人にしては少し高めで、心地よくすっと消えていくのをずっと聞いていたくなる。帰ってきたらマリモちゃんは、ぬか床からきゅうりを出して包丁で切っていた。

私は今日、ある決意をしてここに来た。ずっとわざと言ってなくて、言いたくなくて、でもどこかでは絶対にマリモちゃんに話さないといけない事。
まだ口から白い息が上がるくらいの時に、「マリモちゃん、私ずっと言ってなかったことがあるの。」と言った。

3年前に初めてマリモちゃんに会った時、私は仕事で知り合った2つ年上の男性に失恋をして、結構ボロボロに傷ついていた。

「あなたは私のことを彼女だと思っている。彼女という存在が欲しいから私と一緒にいるんでしょう。別れてください。」と言ったのは私だったのに、私の方がフラれたみたいに傷ついて、それが結構重症だった。

「僕に興味が持てなくて、見ていないのは君の方でしょ。僕を彼氏だと思っているのは君の方だよ。」と彼には言われた。たぶん図星だった。そんな風に思っているつもりはなかったが、すごくギクリとした。

「高校2年生の時、父が病気で死んだんだけど、葬式で全然悲しくなくて涙も出なかったんだ。別に憎んでいるとかそういう風に、思ってなかったと思うんだけど。」と悲しくも深刻でもなさそうな中途半端な彼の顔を見たときに、この人のことを好きになれるかもしれないと思った。すぐそのあとに、彼からの告白を受け入れた。毎週金曜日の夜には、彼の家に行って料理を作ってテレビを見て、くだらないことに笑ったりして週末を過ごす。大きなケンカもなく2年間お互いに楽しく過ごしていたと思う。

ただ、私は彼に一度たりとも自分の描いた絵を見せなかった。
いつまで経っても、絵を見せたいと思うようにならなかった。それをずっと、少し後ろめたく感じていた。

その頃、私にとって絵を書くことは、自分を保つのにたぶん重要な役割を果たしていた。
山の麓で育った私にとって、東京での都会的な暮らしは自分が思う以上に苦しかった。他の多くの地方出身者が思っているのと同じように。よくある話のような感じで。

心のスイッチを切らないとホームにたどり着けないほど混雑した駅に、毎日毎日通うたびに、うっすらと一ミリまた一ミリと降り積もるように鬱々とした何かが身体の中で積もっていって、その代わりに、身体のどこかがスカスカになっていくような感覚があった。駅からの帰り道で、急に訳もなく涙が出た。

その時、家に帰ってもやもやとスケッチブックに落書きをはじめたのが、絵を描きはじめた頃の私だ。
はじめは、言葉にならないもやもやとしたものを、鉛筆でただただぐちゃぐちゃに描き殴った。それから水彩画、油絵、パステル画、いろいろな描き方を試した。

その内に、言葉にならない内側のものを描くことと、現実にあるものを写生することは同じことなのかもしれないと思って、そこにあるものを毎日毎日そのまま描き写した。

一番面白いのは空を描くときで、今まで何回も何回も描いてきたけれど、全く同じ空が描けたことはない。空でなくてもそれは同じことかもしれないが、私は空を書くのが好きだった。

描くようになってしばらくして、誰かに見てもらいたくなった。
昔からの友人や両親や色々な人に見てもらうと、絵という媒体を通してその人の内側の深い事柄を共有している感じがした。大切な人には、恥ずかしいけど見てほしいという気持ちが沸いた。

でも、彼には一度も見せたいと思わなかった。こっちの世界に入ってほしくないという気持ちがなぜかあった。それだけで私は彼を全然好きじゃなかったのだと思う。後になって、全部終わってから気付いたことだけれど。

「失恋」と言っていいのかわからないが、とにかく彼との恋が終わった。彼との関係が終わったことそのものよりも、人間を愛することができない欠落した人間だという事実は私をひどく傷つけた。人を好きになれないんじゃないかと薄々思っていた私には、決定的な出来事でものすごい痛手だった。もうあの駅のホームできちんと立っていられないと思い、仕事を辞めて地元に帰ることにした。

こっちに帰ってきてからは、実家の酒屋を手伝うようになった。はじめてマリモちゃんのお店へ配達に行った時、彼女はパン生地をこねていた。
昔ここがスナックだったことが間違いないであろう昭和感漂う濃い赤色のソファに、金色の縁取りが所々剥がれた白色のテーブルが6つ。

木製のカウンターの背面は、昔お酒が敷き詰められていたであろう一面が棚になっている。そこには数本のウィスキーやブランデーなど蒸留酒の他には、マリモちゃんが旅をした時に撮ってきた世界各国の街並みや田園風景などの写真が、引き伸ばされてキャンパスに張られランダムに飾られていた。

よくあるスナックの暗めな照明よりも明るく、暖色の柔らかい光が店内を包んでいる。
その中に立つマリモちゃんは、不思議にすっとなじんでいた。

カウンター越しからマリモちゃんは、「こんにちは、はじめましてマリモです。ごめんね、今途中だからちょっとだけ待っていてね。」と言って、二重でパッチリとしたアーモンド形の目を伏せて、パン生地へと視線を戻した。流れるように長いまつげの影からすっとした鼻筋を通って、薄めの唇のオウトツを過ぎ、あごから角ばった喉仏にかけるライン。肩まである黒髪は、後ろでひとつに束ねられ、リネンのヘアバンドでしっかりとまとめられていて、その輪郭を邪魔しない。
生地をヘラで型に流し込む作業を、マリモちゃんは優しくて繊細に細やかな動きをして行った。何かの儀式みたいだった。

お店の雰囲気もそうだが、彼女の料理を仕込む所作に、すっかりやられてしまった。
それからというもの、仕事終わりに頻繁にお店へ行くようになった。週に1回は必ず、多くて数回入り浸るようになっていた。特に、お店へ配達に行った日は、マリモちゃんは何かしらだいたい料理をしているので、匂いを嗅いだり見たりしていると、まんまと食べたくなって、夜になるとまたお店に戻った。

ソムリエの母の影響で、私はワインについてなかなか詳しかった。
商店街のお店屋さんの中には、料理にマッチするワインを提案する仕事を、依頼してくれる人もちらほらいた。
「なみちゃんの持ってくるワインって、なんだかときめく味がするねぇ。」とマリモちゃんも私の選ぶワインが、すぐにお気に入りになった。マリモちゃんの料理は、なんだか彼女の人柄がよくわかる味がした。だから、ここのお店のワインは、彼女の人柄に合うワインを選ぶようにした。マリモちゃんは、優しい歌みたいな人だなと思う。からっとした明るさはなく、薄曇りに太陽が滲んでいる、穏やかで、でも虚ろで、揺れる光のよう。ほっとするのに、目が離せない。一瞬で流れて終わる音のような人。

ここに来たお客さんはみんな、マリモちゃんの醸し出す雰囲気と料理に惹かれた。男の人も女の人も、みんなマリモちゃんが大好きだった。マリモちゃんはあるときは女の人のようで、ある時には男の人のようだった。私は未だにマリモちゃんのことを第三者に話すときに、「彼女」と言ったらいいのか、「彼」と言ったらいいのか言いあぐねて曖昧になる。彼女と言ってみたり、彼と言ってみたりする、なんとなくその時の空気感で。

はじめて出会った時、マリモちゃんは39歳。私より15歳も年が上の人なのに、年齢の近い昔からの友達みたいな風で、出会ってすぐに打ち解けた。お互いに「心根の近い人だ」という感覚があった。お料理やワインや最近あったこと、お互いの両親のことやお祖母ちゃん家のこと、子供時代のこと、お気に入りの本のこと何でも話した。
私は一人っ子だが、もし兄弟姉妹がいたらこんな感じなのかなと思った。あの時あの瞬間、一緒に生活をして経験しなければ、決してわからない事柄を共有している感じ。会って数回で、マリモちゃんの前では丸裸同然みたいになっていた。

だから、「どうして、こっちに帰ってきたの?」と彼女に聞かれた時に、小さな子どもみたいにぶわんぶわん大声で泣いて、彼との事の顛末を洗いざらいしゃべってしまった。なんとなく誰にも、彼に絵を見せられなかった話はしていなかったのに。
「それは当たり前のことだから、しょうがないと思うよ。」とマリモちゃんは言った。

「私思うのよね。人間って色んな欲があると思うけど、どれに対しての欲が強いか、あらかじめ生まれる前からおおよそ決まっている気がするの。
赤ちゃんって、生まれた時からその子の性格みたいなのがあるじゃない。何に対して欲するのかについても、既に少しあるように思うの。
ある人はお金を強く欲するし、ある人は愛を欲する。
ある人は地位や名誉を欲するし、ある人は物を創ることを欲する。
どの欲もあるものだけど、その強弱が違うんじゃないかな。
人はみんなその欲を満たそうとしたり、手放そうとしたりして、その人自身の全体性を保とうとしている気がする。
なみちゃんは、絵を書くことを強く欲して、人を好きになる事はそこまで欲していなかったんじゃないの、その時は。」

なんとなくわかりそうな気がして、かみ砕けなくて天井のはじっこあたりに目が泳いだ。

しばらく考えてから、
「その人の全体性を保つってどういうこと?」と私は言った。
「うーん、例えば身体のどこか病気になったら病院へ行って治療してもらうじゃない。病院に行かなくても、食べ物や生活や時間やそういったことで、病気を治す。
そうして健康な自分本来の身体を保った状態にしようとする。
その状態が全体性を保ったイメージに近いかな。
そのためにその時に必要な食べ物や薬とかが、その人が欲を満たしたり手放したりする行為と同じ類のもの、みたいなイメージ。」とマリモちゃんは言った。

思考は相変わらずぼやーっとしていたけど、ほぼ直感的に腑に落ちた。こっちに戻ってきて数か月間、なんだか軽くてふわふわと心もとない感じだった身体が、その時ずっしりと少し元に戻ったのがわかった。

バーマリモには、私の父もすっかりよく通うようになっていた。
父はお酒があまり強くない。ビールを小コップ一杯飲んだだけで顔が真っ赤になって、ろれつが回らなくなる。酒屋の店主にもかかわらず。
私がこっちに帰ってくる前は、父がマリモちゃんのお店にもお酒の配達をしていたが、「バー」と名の付くところに、仕事以外で出入りすることはなかったらしい。全く勘の悪い人である。

私が「めちゃめちゃ美味しい食べ物があるから行こう。」と誘って一緒に行ってからは、一人でもここへご飯を食べに来ているようだった。父とは約束などしなくとも、何度もお店で鉢合わせした。

一緒にバーマリモで過ごすようになるまで、私にとって父は他の家庭の「父」と同じような、ただの父だった。
酒屋で仕事をしている父。家で私に怒ったり、励ましたり、褒めたりする父。

バーマリモで見る父は、マリモちゃんとおしゃべりをしている父は、私の知っている父とは違う人間だった。
母から、父は都内の美術大学で油絵の勉強をして、卒業後はデザインの仕事をしていたが、母との結婚と同時にみなかみに帰って、家業の酒屋を継いだと聞かされていた。
父は私には到底ついていけない、マニアックな画家や音楽の話をマリモちゃんとしていた。父はとても楽しそうで、彼が大学生の頃なんかに、友達としゃべる様子はこんなのだったんだろうかと思った。ただの晴彦だった頃の父。

そうこうしているうちに、私は父である晴彦のことを仲の良い友人のような、マリモちゃんも含めて家族のように仲の良い3人のような、父のことを父ではなく、人間として見るようになった。

マリモちゃんは、私の父が好きだ。たぶん。
私は人が人のことを好きになる瞬間を、その日はじめて目にした。正しくは好きの中でも、「愛する」の部類のもの。人が人を愛しはじめた瞬間。
その日父は、30代の頃にネイティブアメリカンの集落で過ごした時のことを、しゃべっていた。

「ナバホ族の人達は、羊を追って夏は山間の家で過ごすんだ。
電気も水も通ってない場所で、朝は水をくみ、昼の間は乳をしぼりチーズを作ったり、羊肉をさばいたり、それを毎日毎日。
彼らは太陽、水、空気、大地を大切にしていた。
自然、動物、この世にあるものはみなかけがえがなく、同列に存在しているという考えを持っていてね。あそこで生活をしていた時、心からそういったことを理解したよ。
彼らは男女で役割に違いがあるという考えを持っていて、見た目の男女関係なく自分自身でどちらの役割をするか選ぶんだ。両方でもいい。それが当たり前とされている。」

「どうして晴彦さんは、ネイティブアメリカンの集落に行こうと思ったの?」とマリモちゃんが聞いた。

「たまたま友達が、そこの集落の人と縁のある人でね。なんとなく行ってみようかなって。彼らは『ハルヒコとは昔から縁があったから、ここに呼ばれたんだ。前世ではきっと家族だったんだよ』と言っていたよ。でも、なんかそういった、縁みたいなのってある気がするよ。僕とマリモちゃんが出会ったのも、きっと何かずっとずっと昔からの縁だよ。
あなたといると、彼らと一緒にいた時を思い出すよ。とても自然だ。」と父は言った。

マリモちゃんは何も言わなかった。
でも、その様子から彼女がぶわっとなっているのがわかった。人が感動したりときめいたりしたときに発する熱、光のようなものを彼女から感じた。胸があたたかさでいっぱいになる瞬間。愛を感じる瞬間。

それからというもの、もともと優しくてガラス玉みたいにきれいな目をしたマリモちゃんの目が、晴彦を見る時もっともっと優しい目になった。

******
「マリモちゃん、私ずっと言ってなかったことがあるの。」
「どうしたの、なみちゃん。そんな深刻な雰囲気、珍しい。とりあえず、ごはん食べたら?」とマリモちゃんは言った。
マリモちゃんが、おそらく父を好きになってからの2年間。
こんなにも、色んなことを打ち明けあってきたマリモちゃんに、ずっと言えなかったこと。
私はマリモちゃん特製のライ麦パンに、自家製のぬか漬けきゅうり、ハム、マヨネーズをのせたピンチョスをかじり、グラスに入った赤ワインを一口飲んでから言った。

「3年前にこっちに帰ってきた理由。失恋だけじゃないの。失恋ももちろん理由ではあるんだけど、もうひとつ言ってないことがある。お母さんのこと。」
「お母さんって、流しのソムリエのゆりさん?今フランスに行ってらっしゃるのよね?」
「・・・どこにいるかわからないの。」
「え、行方不明なの?」
「私が東京からこっちに戻ってくるちょっと前、お母さんが急に東京の私の家に来たの。母はもう家を出ると強く心に決めていて、私が何を言っても、もう無理だった。」

「私、あの人といるとどんどん残酷で、利己的で、嫌な自分になる。結婚してから、自分がどんどん嫌な人間に膨れ上がっているように感じる。あの人を、私の人生の歯車にしてしまっている感覚があるの。」と母は言った。

確かに母は、私が小学生の頃から高校を卒業して家を出るまでにかけて、父に対して厳しく当たることが多くなっていた。父がそんなに悪いとは思えない、些細なことでも激高するようになり、自分を自分で止められない感じ。
でも、そんな瞬間以外のいつもの二人は、私から見ると、学生時代から30年以上一緒に連れ添っている、お互いに大切な時間を分け合ってきたとても仲の良い夫婦のように見えた。

「みなかみに戻って、東京や高崎で流しのソムリエをやりたいと言った時、あの人は応援したいからと言って、自分の夢だった絵描きは一切やめて一緒にこっちへ戻ってきたの。ずっと、実家を継ぐつもりはないと言っていたのに。
はじめは、私のやりたいことを応援してくれてありがたいし、愛を感じたんだけど。
だんだん自分のやりたいことが二人のやりたいことのように感じて、自分の境界線が薄くなっていく感覚というか、私のやりたいことのはずなんだけど、あの人のやりたいことをやっているような感覚になってきて、イライラするようになっちゃって。
あの人は昔好きだった絵を書くことも、本を読んだり音楽を聴いたりすることもしなくなって。お互いにシェアできるものが、家族と仕事についてになって。そして、あなたが家を出て、私たち二人になった。どうしても今の彼ではなく、学生時代の好きな事をなんでもやっていた頃の彼を見てしまう。その頃の彼はもう、いないのに。」と母は言った。

「あの人を愛しているけど、だからこそ、多分もう一緒にいてはいけないと思うの。なみこ、ごめんね。」と言って、うちに泊まった次の日に、母はそのまま家を出た。
たまに母と連絡をとることはあるが、母が今どこにいるのかは聞いていない。
母が出て行ってから、父は目に見えて落ち込んだ。
しかし、母が帰ってくることに疑いはないという感じで、今はパリか東京か、ちょっと長めの仕事に出ているけどいつかは帰ってくる、という姿勢を崩さず生活をしていた。母がおそらく高い可能性で、父のもとに戻ることはない現実を受け入れていなかった。

「今まで言っていなくてごめん。父のことが放っておけないのもあって、こっちに戻ってきたの。マリモちゃんの父への気持ち、なんとなく感じていて、父だってなんだかまんざらでもないんじゃないかと思うの。でも、なんか怖くて。私たちの家族、家族だった私たちの形が本当に終わる気がして。」と私は言った。

マリモちゃんは、私の食べかけのパンをちょっと眺めて言った。
「なみちゃん、利根川に龍宮城があるの知っている?」
「え、龍宮城?」
「この辺りに語り継がれる伝承でね。
昔ここら辺では『庚申町』って言われる、神様や仏様を祭って、夜寝ないで集まる会があって。ひとりの男が、その会に参加するところから話ははじまるの。
ある日、その男性が世話役になる番が回ってきて、会のメンバーは利根川の深い淵に連れて行かれて、その男の自宅である龍宮城に案内される。
そこで振舞われた料理の中に人魚の肉があった。誰も手を付けなかったその肉を、清治という男が家に持って帰って、3歳の娘がそれを食べてしまう。
すると、その女の子は、年をあまりとらなくなって、親、兄弟姉妹、親戚、みんな死んでもひとりで生き続ける。800年間生き続けたっていう話。」

マリモちゃんは続けた。
「小さい頃にお祖母ちゃんからこの話をよく聞かされて、なんだかずっと忘れられなかった。800年間誰とも分かち合えない、孤独。
東京でね、このお店を開く前は新宿のオカマバーで働いていた話は前にしたよね。みなかみから外に出て、これでやっと私は男でなくて、自由に自分でいられると思ったの。でも、実際には、男からオカマになっただけだった。
なみちゃん、私ね、ずっと孤独だった。
誰と一緒にいても私であって私でないようで、寂しかった。
晴彦さんに、あなたは自然だねって言われた時に、初めて私が私であることを認められたような、私の傷をわかってくれたようなそんな気がして、胸があたたかさでいっぱいになった。」

「うん、あの時横にいて、そう感じたよ。マリモちゃんの胸がいっぱいになった後に、それを見たお父さんも、胸があたたかくなっているように見えたよ。」

「でもね、恋人になりたいとか、そうゆうのではないの。晴彦さんは、ゆりさんと一緒にいたいと願っている。二人が一緒にいられたらいいなと思うし、いられなくとも何でも彼がいつでも幸せであってほしいと、じんわり思う感覚なの。愛するってこんな感じなのかしらね。」

それから私と晴彦は相変わらず、バーマリモへ頻繁に通っている。マリモちゃんと二人の時もあるし、晴彦と三人の時もある。晴彦が一人で行っている時もあるようだ。母は相変わらずどこにいるのかわからない。

変わったことと言えば、晴彦が最近、私の買ったアマゾンのAIスピーカーアレクサで、音楽を聴きはじめた。はじめは「そんなもの買って。」などと言っていたのに、今では彼の方がアレクサをいっぱい使っている。どうやら、絵も描きはじめたようだ。私にはまだ、見せたくないみたいだけれど。

私たちの関係っていったい何なんだろうと、よく思う。

マリモちゃんと二人でいるときは、マリモちゃんは私の親友だ。晴彦と二人でいるとき、彼は私の父であり、最近では親友でもあると思う。3人でいるときは、親友のような家族のような、また少し違う感じ。マリモちゃんの胸があたたかくなると、父の胸もあたたかくなり、そんなふたりを見ると私の胸もあたたかくなる。

言葉でなんて定義しなくっていいと思う。ただただ、このままこの関係が続いていけばいいのにと強く思う。
その一瞬一瞬で変わっていく感情、関係性。この愛するという気持ちは、じゃあ一体なんなんだよと、天に向かって叫びたくなる。変わらない関係がないことの、残酷さ。でもそれは、きっと救済でもある。

暗い湖の底で、ひっそりと光を受けるマリモ達のように、暗闇の中でも発光するマリモちゃん、晴彦、私、そして、どこかには光り輝く母もいる、そんな光景がいつまでも続いてほしいと祈りのように強く願った。               

おわり

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