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映画「機動戦士ガンダム」3部作、宣伝作戦

松竹では、映画「機動戦士ガンダム」3部作を担当しました。
その後、「伝説巨神イデオン」(接触篇・発動篇)、「クラッシャージョウ、「ザブングルグラフィティ」「ドキュメント太陽の牙ダグラム」「チョロQダグラム」、「超人ロック」、「魔法のプリンセスミンキーモモ 夢の中の輪舞」「魔法の天使クリィミーマミ ロング・グッドバイ」「魔法の天使クリィミーマミVS魔法のプリンセスミンキーモモ 劇場の大決戦」、「ダーティペア」「バツ&テリー」、「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」の途中まで担当しました。  
ガンダムの第一弾の宣伝が始まったのは1980年秋だったと思います。81年3月の全国公開が決まっていました。記者発表が東銀座の今の松竹本社のある東劇ビルの18階にレストラン・エスカルゴがあって、そこで行われました。あつまったのは、スポーツ紙とアニメ雑誌が中心だったと思います。
当時、アニメ雑誌は、徳間書店の「アニメージュ」、ラポートの「アニメック」、みのり書房の「OUT」だけだったと思います。ガンダムで火がついて、のちに近代映画社の「ジ・アニメ」秋田書店の「マイアニメ」そして学研の「アニメディア」が続いたと思います。
2月に新宿でガンダムの大きなイベントをやりたいと日本サンライズから提案があり、それにむかって準備を始めました。 題して「アニメ新世紀宣言」。 2月22日に新宿ピカデリーで、当時仮装大会と呼んでいましたが、今でいうコスプレ大会ですね、シャアやアムロなどに扮した仮装です。が行われ、午後からアルタ前で、アルタの電光掲示板(LEDモニターではなかったです)で抽選会の発表をし、映画の予告編の生フィルムや声優や富野さんたちのサイン入りポスターセル原画を配りました。当時は、富野さんや安彦さんらのスタッフのサインもかなり喜ばれました。私も声優よりクリエイターたちのほうにあこがれを感じていました。やしきたかじんの主題歌「砂の十字架」の生歌披露もありました。
アルタ前には前夜から子供たちと言っても高校生以上でしたが、並んでいて、グループで来ている子たちが多かったです。グループごとにノートに順番を付けていて、トイレ休憩や買い物、食事で抜けても元の列に戻れるようにリーダーたちが仕切っていました。みんな購入した前売券やコレクションを見せ合っていたように思います。2月21日の夜はものすごく寒く、それでも子供たちが並びつづけるので、私たちは翌日のイベントに備えて近所にホテルをとっていましたが、新宿松竹の支配人に相談したところ、夜中に歌舞伎町などへ行って警察に補導されるとイベントごとふっとぶので、とにかく劇場で一晩泊めるので連れてきてくれと言われました。1981年当時の新宿歌舞伎町は、今のような厳しい風営法がなく、無法地帯のような場所で、ゲームセンターは24時間営業していました。よく青少年の補導の話がありました。しかし大人には危険もありながらとても不健全で面白い町だったと思います。
30人くらいだったか、終電がおわるころ、みんなを新宿松竹へ誘導しました。
子供たちは、席について寝るわけではなく、走りまわって、劇場は、初めて出会ったファン同士の交流会の場所と化していました。今のようにネットもない時代の交流はなかなか大変でした。
2月22日、アニメ新世紀宣言当日、始発より早く元の場所へ並びたいとのファンの要請で、アルタ前に真っ暗な午前5時前にみんな戻りました。
始発が始まると、子供たちがぞくぞくとやってきました。午前7時くらいには、アルタ前がかなりあふれてきて、確か、富野監督が京王プラザに泊まっていたので、かけつけてお昼のイベントが早まるかもしれないと報告にいきました。思った通り、アルタ前は大変なことになってきて、イベントはお昼前から始まったように思います。松竹、サンライズそれぞれの宣伝関係者で、舞台の前でファンが押し寄せないようにしていたのですが、松竹の幹部はたしか真っ青になっていたように思います。イベントには医者も待機させておかないといけないので、松竹の契約の新宿厚生年金病院のお医者さんが来ていました。
私は、イベントの数日前に新宿警察署へ、イベントの届を出したのですが、その時どのくらい集まるか聞かれたので、たしかヤマトのどこかのイベントで2000人集まった話を聞いていたので、2000人と報告しました。
ところがあけてびっくり、この日集まったのは、2万人だったのです。一説には1万5000人という話もありますが、当時私は2万人集まったと聞きました。伊勢丹のほうにまで列ができていたそうです。新宿の地下へ様子を見にいって交番のところへ出ようとしたら、地下まで人があふれて上へ出ることができませんでした。
このもようは、翌日の一般紙の一面にとりあげられ、「ヤマトの次はガンダム」というのが決定的になりました。当時は、イベントの情報をアニメ誌や新聞広告でしか伝える手段がなかったので、事前にどのくらいのファンが集まるか予想がつきませんでした。ガンダムのファンは、クラスにひとりくらい、と当時、ファンのひとから聞いていたので、このイベントに関東周辺からひとりでやってきたファンたちは、びっくりすると同時に、仲間に会えて心強くなったに違いありません。
当日、アニメ新世紀宣言で、ニュータイプというガンダムのメッセージのようなものが宣言されました。新しい世代が新しいアニメ文化を作っていくというような感じだったと思います。サンライズの宣伝プロデューサーがニュータイプを象徴する宣言文を作ってきました。松竹の年配者はよくわからんと言っていましたが、ガンダムのムードをよく出していたと思います。私もニュータイプになれそうな気分に浸っていました。宣言文を読み上げたのは、のちに「重戦機エルガイム」(84年)のメカデザインを担当する永野護、のちに奥様となる声優の川村万梨阿さんでした。永野さんは、当時よく、ロックミュージシャンのような格好でサンライズの前をうろうろしていて、私がスタッフに誰ですかと尋ねると、永野といってメカデザインをもちこんでくる、と言っていました。サンライズのある上井草駅周辺は、まんがのトキワ荘のような聖地な感じでした。いまは、ガンダムの銅像が駅前にたっていますね。
こうして一夜明けるとガンダムは急速に世間に認知され、3月の映画公開では全国で大きなヒットとなります。配給収入で9億円ほど行きました。(今は興行収入で発表しています。興行収入を映画館と配給会社で大まかには折半します。配給会社の受取り分が配給収入です)

つづく7月には、哀・戦士 が公開され、これは配収7億、井上大輔さんの主題歌もヒットしました。(映画公開時には、「哀・戦士」というタイトルで、ポスターに「編」はついていません。「編」をつけると映画がこけるというジンクスを興行部が猛烈に主張してきて、「編」をつけませんでした。なお、第一弾のポスターのオリジナルのタイトルロゴは黄色系でしたが、黄色のタイトルは映画がこけると、これも興行部が強く主張してきましたが、さすがにオリジナルタイトルデザインなのでそのまま押し通しました)

松竹系300館では劇場が足らなくなり、ピンク映画の劇場で午前中公開するなどが始まりました。会社へ親から苦情が来たこともありました。子どもと一緒に見にいったら、ピンクの予告編がかかっていた。映画館の壁にピンクのポスターがそのままになっていた、というものです。午後は通常通り、ピンク映画の上映となるのです。
松竹の映画館は「寅さん」をやる劇場というイメージが強く、提灯が常時飾られていて、ガンダムと提灯は変だとよくファンに言われました。かといって、映画館は提灯をはずしてくれませんでした。また、サンライズからガンダムの映画の前に松竹の富士山のロゴがでるのはかっこ悪いとよく言われていました。これも対応はしませんでした。哀・戦士のころからか、サンライズの映画の前には、サンライズのムービングロゴが出るようになりました。4枚つづりのグループ鑑賞券も、哀戦士の時にできたと思います。ファンのアイデアでした。4枚つづりで、4000円、安彦さんのキャラクター券と大河原さんのメカ券がありました。単体の前売り券もキャラクターとメカとありました。ファンはこれらをコレクションして、当日には使わないので、あざとい商売でした。
哀・戦士の大河原さんのメカポスターの原画を受け取りにサンライズに行ったときは、トレーシングペーパーのかかった原画をとても電車で運ぶ気にならず、タクシーを呼んで、上井草から東銀座の松竹までとばしました。黒い三連星の原画にはしびれました。
松竹では宣伝部に写真屋さんを待機させていました。原画の撮影をするのです。
哀・戦士のときに映画のマスコミ用に作品紹介用パンフレット(マスコミ用カラープレス)を作ったのですが、黒い三連星ドムなどの主要モビルスーツには型番がありましたが、その他大勢のモビルスーツに型番がなかったのでサンライズに聞きにいったところ、富野さんたちが会議をやっていたのですが、「こんどう君ちょっと待ってて」と言われ30分くらい待ちましたか、そしたらすべてのモビルスーツに型番をつけていただきました。けっこう簡単につけてしまったように思いますが、それが今のものすごい数のモビルスーツのツリーの上のほうにあると思うと感動です。

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