見出し画像

「熊野詣で日記⑩」 ~トイレで寝るの巻~

3月27日

5時半くらいに起床しただろうか。昨晩はかなり冷えた。

山深い谷間の、川辺にかかる橋の下にテントを張ったのである。

霜がテントにびっしょりついていてどうりで寒いはずだと思った。寒さのせいで朝の用意も容易にはいかなかった。


コーヒーを淹れ、山崎パンの食パンにバターを塗っただけの食事をとったが、寒さのせいであまり朝食をとった気がしない。

もう4月も間近なのに。

霜を乾かすべく、小口休憩所のトイレ前にテントのカバーを広げた。

その間太陽の光が指しはじめ少し暖かくなったので、我々は全裸になり水垢離をとることにした。

二人で般若心経を読み、20〜30センチくらいの水深のところに入って、頭から身体に水をかぶり、下半身も手短に洗った。

水垢離をすると、さっぱりして身体が清まった感覚がある。この感覚こそが水垢離の効果に違いなく、毎日風呂に入るのが困難だった昔の人は、水で体を洗うことで味わえるこのさっぱり感が、体を清めるということと同義だったに違いない。

小口には、バスが泊まる。

数組の人たちが降りてきて私たちが越えてきた小雲取越え方面に歩いていった。   

中年女性四人組がトイレでオリバーが大便しているところに出くわし、悲鳴をあげていた(笑)

そのおばちゃんらと話したが、そのうちの一人が私が穿いているサッカー日本代表のジャージの八咫烏(やたがらす)に気づいた。

八咫烏(やたがらす)は、神武天皇を導いたとされる熊野のシンボルでもあり、サッカー日本代表のシンボルマークともなっている。

そういえば私はそんなことも忘れてこのジャージをもってきていたのだった。

偶然といえば偶然だが、こういう偶然が起こることも面白い。

このジャージはもう何年も前セカンドストリートで安かったから買っただけで、私はサッカーにはあまり興味はない。

だが無意識にこんなものを買っていて、またこの旅にもってきていたのである。もしかしたら、ずっと前からここに来ることを運命づけられていたのではないか?そんなことまで考えた。



結局、小口をでたのは午前9時頃になった


小口の集落の南方商店に寄って、食い物とガスを調達した。


お供え用の日本酒と、ココナッツサブレ、バターピー、明治チョコレート2枚、ガスボンベ、梅干しなどを購入した。

ここが那智大社までの道のりで最後の店だからだ。ここの女性がとて愛想が良く、しばらく話した。元気な人だった。

小口ではここが唯一のお店だと思われる。

私は田舎暮らしに憧れてはいるが、こんなとこには住めないだろうと思った。自分は人がいない生活では病んで死んでしまうかもしれない。

さて、これからは、いよいよ大雲取越えである。

大雲取越えの最初はなかなかの辛さで、一気に標高60メートルくらいから800メートルまで駆け上がった。

朝はスカスカの山崎パンしか食べていなかったこともあり、力がでなかった。

昔、野球をしているとき監督から「パンを食べるな、米を食え!」としつこく言われていたが、こういうことなんだろう。

ある中国人が「かつて塩とおにぎりだけで中国に攻め入った国は日本だけだ」ということをいったらしい(なにかのYou Tubeで聞いた)。


そういえば米食を主食とするベトナムもベトナム戦争では最後はアメリカを国から追い出した。

米食民族は戦争に強い、というのが私の持論だ(笑)
 
大雲取り越えは峻険な登り坂が続く。

オリバーは何度も休憩していた。

彼の荷物は非常に大きい。食料は私がもっているが、テントは彼が運んでくれている。よく頑張ったと思う

ピークの越前峠で昼飯にした。12時過ぎくらいだったと思う

私たちはここでやっと、大阪のmont-bell本社で買っていたアルファ米のご飯を食べた。味は悪くなく量も少なくはない。

またかなり持ち運ぶのに軽くてお手軽であった。アルファ米にインスタント味噌汁、それにピーナッツの昼飯だったが、午後はこの昼飯のおかげでバテることはなかった


13時前くらいからまたひたすら歩き、崖崩れのため通行止めになっている石倉峠〜地蔵茶屋跡は迂回した。

地蔵茶屋跡には地蔵菩薩のお堂があった。

「地蔵茶屋」というだけあって、 こういう山奥でも茶屋が営むことができていたくらい、かつては熊野詣でをする人たちが多かったということだろう。


私たちはここの地蔵菩薩にしっかり供養したくなり、ここの水を替え、堂内の掃除をし、蝋燭をたて線香をあげた。そしてお経を読み、地蔵菩薩の真言をあげた。

我ながらなかなか良いことをしたと思ったのだった。

そしてこの旅を進めるにつれて、薄くなっていた信仰心がまた戻ってくるような感覚を感じるのだった。これは明らかに巡礼の効果であった。


私たちはここで買っていたココナッツサブレでおやつとし、コーヒーを淹れた。

天気も良く、鳥の鳴き声と風で木々の葉っぱがたなびく音だけが聞こえる。優雅といえばこんな優雅な旅もそうあるまい。

この旅にこれたことがとても幸運なことに思えたのだった。

私たちは再び歩きだした。

五来重の本に書いていたが、この大雲取り越えには「亡者の出会い」という死者に会えるという峠がある。

我々が持っている地図にもその名は確認できたが、五来重がいっていたような暗さはなく、そこを通ったことさえ気づかなかったほどだ。

もちろん死者に会うことはなかった。

熊野が世界遺産化されたことで、陰鬱さが払拭されたのだろうか。

しかし、今回この大雲取越えを歩いて思ったのが、森林の荒れ方である。

杉林は生命を感じない。特に日当たりの悪い杉林は他の植物が生える隙間も無く、陰鬱としている。 間引きのために倒された杉は放置され、また杉の落ち葉が古道のあちこちに散乱し、山林の中においてもそれが土に帰っているような様子もない。つまり汚いのだ。


この荒れた杉林はどうにかならないのだろうかと思う。 散らばった杉の倒木を何かに使えないのだろうか。

そして効率よくまた低コストであの倒木を回収することはできないのだろうか。

政府に金を出させてこの熊野、また福岡や日本全国の山林整備ができないだろうか。そんなことをかんがえた。

そもそも、戦後の杉の植林は林野庁主導で行った国策だったではないか。

それならば、外国の木材が安いからといってそれを輸入するのではなく、また再び国策として国内産の杉を木材として使用することを奨励し、この不自然な杉林を元の森林に戻すべきではないか。

植林の失策をしっかり認めて、金の使い道をこういうことに使うべきではないのか。

私がかつて関わっていた森林団体はこの問題について非常に頑張っているようだが、なかなか声は政治には届かない。

そして事態はさらに悪化し、日本全国で山林にメガソーラーが乱立するようになった。この国は利権にまみれて身動きできないように思う。この国は早晩滅びるだろう。

私たちはまたひたすら歩いた。

残るはあと少しと思ったが意外と遠かった。 私たちは最後の道のりを噛みしめながら結構ゆっくり歩いた。

私たちが那智高原公園についたのがだいたい18時前くらいだったと思う。

人っこ1人いない。

ここの東屋でテントを張ろうかと思ったが、風が強いし今晩雨が降るので、他のところを探した。

この公園はとても広い。寝るに敵した場所はないか歩き回って探していたが風も雨も防げるところはないようにおもえた。

公園内では鹿が歩いており、遠くから私たちをみて警戒しているようだった。

昨日も鹿を見たが、ハンターはこういう鹿を撃って食べるのだろう。あのかわいい顔を見ると、ベジタリアンになろうかなと本気で思ってしまうのだった。

私たちは歩き回った挙句、結局この公園内の障害者用のトイレのなかで寝ることにした。

風もなく暖かい。そして広い。

今回の野宿では最も快適な「宿」であった。しかもトイレ水道付きである(笑)


誰も来なければ良いがと少し心配したが、まあ滅多に人が来るようなところでもない


夜飯はトイレの中で蕎麦がきを作って食ったが、最初の数口は良かったがだんだん不味くなって食いたくなくなった。

虚空蔵菩薩求聞持法を修行する高野山の行者はこの蕎麦粉を少し食うだけで行を100日と続けるそうな。私にはきっと無理だろうとおもった。

夜飯は、結局うどん、納豆、そばがき、オリバーから少し分けてもらったアルファ米である。 ひどい食事だ。オリバも同じメニューである。

トイレは暖かく快適だった。トイレで寝ることに抵抗はないが、俺は一体38歳にもなって何をしているのだろうかと思ったが心は少年の頃に戻りワクワクしている。

暖かい布団で寝たい気持ちもはもちろんあるが、たまにはこういうところで寝て「文明生活」を離れ、野生に帰るのも悪くない。

日記を書いている今オリバーは寝ている。

先ほど、四日市〜福岡の高速バスを買った。31日出発である。

俺の旅も終わりに近づきつつある。


おそらく明日は那智大社を参拝し、巨大な那智の滝を見て、勝浦まで歩くだろう。

そしてそこから新宮まで電車で行き、速玉大社を参拝し熊野古道の旅は終わりとなるだろう。

そして明後日には伊勢にいくのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?