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「熊野詣で日記⑥」〜高原~牛馬童子~継桜王子~三越峠篇〜

3月23日


朝は5時半起床。


夜中は寒くて何度か起きたが、寝られないほど寒いというわけでもない。


高原の展望台の朝はとても清々しい。

一帯の空気には都会にはない冷たさと清らかさがあり、展望台の下の数々の棚田と水車が、まださほど高くは登っていない明朝の太陽のほの明るい陽光を受けて幻想的に映えていた。

遠くには深い山脈が延々と折り重なる。

右方の山々一帯は「果無(はてなし)」というらしく、まさにその名の通り絶望的に深い山々が果て無く続く。




昔、中華人民共和国の甘粛省夏河県の朗木子(ランムーシ)という秘境の村を訪れたことがある。 

その村の丘の高台に登って仰いだチベットの山々は、遠く霞む青空の果てまで重なり合っていて、私はその壮大さに地球の神秘とこの世界の広さを思って感激したりしたが、今回この高原展望台から臨む山々も、チベットほどの壮大さには欠けるにしても、神秘さという点ではあのチベットの山々を思いおこさせるような厳かさがあった。

山の生活は厳しいものだが、それに反して自然の美しさは格別だと思った。そして私はつい昨日まで大都会にいたことがまるで夢だったかのように、人がほとんど通りもしない紀伊半島の山奥にいることが嘘のように感じたのだった。



朝はゆっくりとテントをたたんで出発の準備をし、monbel の折りたたみ式のコーヒードリッパーで、スーパーで買ったコーヒーを淹れて飲んだ。このサバイバルな旅もせめてコーヒータイムくらいは優雅に行きたい。


すぐ近くの高原王子社を参った。古びた赤い社殿が印象的で、龍神様が祀られている。平成の御代に今上帝が皇太子だった頃一度来られたようだ。



私たちは、ひたすらに古道を進んだ。  侘しい民家の通りを過ぎ、杉で鬱蒼とした山道をただただ進んだ。


気候は非常に良く、刺すように冷たかった空気も歩いていくと徐々に和らいだ。

森の静寂さが厳かに神聖で、この旅に出られたことの幸せを噛み締めながら歩いた。   


途中綺麗な赤い花にマルハナバチが蜜を吸いに来ているのが今思い出せるほどに印象的で、牧歌的に過ぎていくこの時間がとても貴重なものに思えた。



11時前に道の駅「熊野古道中辺路」に着き、休憩。

高菜の浅漬けの葉でくるんだめばり寿司と、まんじゅうとを買い、ガスでお湯を沸かしインスタント味噌汁で昼飯をとった。このコロナ禍のご時世には珍しく外国人カップルもいた。


1時間くらいはゆっくり休んだだろうと思う。

私たちは再び歩みを進めた。すぐ近くに牛馬童子像というのがあった。どうやら熊野詣でに熱心だった花山天皇を模した像らしく明治時代に作られたのではないかと言われている。 


牛馬童子像からさほど進んでいないところにある集落に行き着いた。


その集落には日置川という清らかな河川が流れている。あたりの景色がまるで桃源郷のようなところで夢を見ているような心地になる。

古来から熊野詣でをする者は、本宮に到達するまでに何度も水垢離をとりながら進んだというが、昨日風呂に入れていない私たちも、汚れを落とすためにここで水垢離をとった。

現代では神社の神様にお参りをする前に手を洗い口を濯ぐのが一般的な作法になってはいるが、これは水垢離を簡略化したものだという。 

本来ならば水で全身を清めて神様に会うのが本来の作法だというので、私たちはせっかくなので古来の作法に則ったということだ。

すぐ先には小さな集落がある。骨董などをおいている店、昭和初期を彷彿させる古びた看板の店などがあり、ここだけが時代が止まっているかのようだ。

恐らく、限界集落といわれる所だろう。元気よく子供たちが遊んでおり、私達に挨拶をした。



私たちは山の集落を通りながら、2時半ぐらいに継桜王子まできた。

鳥居の背後にある杉のデカさに圧倒される。

隣に日本昔話にも出てきそうな感じ茶屋跡があった。熊野古道の古の風景を想像させるものであった。




小広王子を通り、2011年の台風の影響で通れなくなった岩神王子が通れないため設けられた迂回路をとおり蛇形地蔵まで来た。その時点で17時だ。


オリバーは私を引き止め、お地蔵さんにしっかりお参りしようといって、私たちは線香を炊き般若心経と真言をあげた。

日本人よりも信心深いやつだ。


こうやって私は巡礼記などを書いているが、実は自分の信心深さにはあまり自信がない。

基本的に目に見えない世界のことを信じてはいるが、都合の良いときはよく拝むくせに、それを時々面倒くさいと思う自分もいる。 そして宗教世界というのは、人間が造りだしたフィクションに過ぎないのではないかという気は、仏を拝んでいても完全には消えないのだ。

だが私はそれでも、つまり宗教はフィクションでも良いと思って拝んでいる。

オリバーは、高野山で自分の知る死者と再会したというが、本当の信心には、そういう神秘体験というものが必要なのだろうかとも思ったりするが。 


そして私たちは湯川王子を通り、湯川一族という豪族がかつてこの地にいたことを知った。

あたりは戦後の植林政策で乱雑な杉林となって荒れ果てており、非常に暗くじめじめしていた。ここにかつてひとが住んでいたというのが信じられないような場所だった。


だがここが杉林となる前であったらきっと豊かな生態系が保たれていたはずで、そうであればひとが住んでいても不思議ではない。

戦後の杉の植林政策はまったくの愚策だったと思う。


真っ暗な杉林を通りながら私たちは三越峠の東屋に着いた。


隣では途中で会った大阪のカップルと思われる人たちがテントを張っている


私たちも手分けして野営の準備をした。 


夜飯は昨晩と全く一緒。ガスで玄米を炊いて、蕎麦の乾麺を湯がいて味噌で食った。


そういえば、今日歩いている時にオリバーが私の未来について訪ねてきた。

私の今後したいことなどを聞かれ、またそれを成し遂げるためにどんな努力をしているのか、ということを問われたが何だか耳が痛かった。

私には心からやりたいことが無いのかもしれないということに気がついたからだ。

今までいろんなことを試したがどれも中途半端で終わった。

中途半端に終わってしまったのは、確とした目標を見出せなかったからなのは間違いないが、東日本大震災以来の日本に絶望していたことの影響もあるだろう。

この国では何をしても無力なのではないかという諦念が支配し、私はそんな社会で生きていくのに嫌気がして、それから何度か日本を離れた。

外国に住んでみたり外国の客船会社などで働いたりしてみたがそれでも最終的には日本に戻ってきた。

結局は日本で何かをしたいんだろうし日本を諦めきれないでいるといことなんだろう。

ただし自分の主張を持ち続ければ持ち続けるほどこの社会は本当に生きにくいと感じる。そうやってるうちにもう40歳手前まできてしまった。

社会を変えるのは無理だと悟り、それならば自分を変えようとあらゆる努力をしたが、頑固な自分を変えるのはそう簡単ではない。 

きっとその妥協点を探せる人がいはゆる「大人」というものだろうし、社会と折り合いをつけるというのはつまりそういうことなのだ。

40手前にもなって俺はまだ子供だったということだろう。

私はいまだに今後の展望を描けないでいるが、この旅で何かを見出したいと思っている。


明日はやっと本宮へ着きそうだ。






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