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「熊野詣で日記④」 〜高野山 篇〜

3月21日

「タク! 何やってる!」

私は朝6時に急かすオリバーの声で目が冷めた。部屋のドアが開きっぱなしだったらしく、昨晩風呂でへべれけになってそのまま寝てたに違いない。


6時32分の高野山方面に行く電車に乗る予定だったが、私の寝坊のため遅れた。

恥ずかしながら昨日は飲みすぎたようだ。

私たちはこれから、高野山へ向かう。 3月21日は高野山奥の院で「正御影供(しょうみえく)」が行われる。 空海をグルと仰ぐ私もオリバーもそれを観たいと思った。

835年、旧暦の3月21日に「入定」した(この世を去った!?)弘法大師・空海(こうぼうだいし・くうかい)だが、新暦の3月21日においてもその死(死んでないという説もある)を悼み、高徳を慕い、供養するのである。それを正御影供という。

(ちなみに空海は、信仰の上では奥の院御廟で「入定(にゅうじょう)」していることになっており、衆生を救うため永遠の瞑想に入っているという信仰があるため、通常は「この世を去った」とは言わない。)

大都会大阪の喧騒を離れ、山野の景色が気持ち良い風景を通って高野山を目指した。

電車の中の人はまばらだ。そして本日は雨である。

春先の山深い里々にうっすらと霧がかかっている風景を、オリバーは「これが日本のイメージだよ!」と言って興奮していたが、外国人から見る日本はそう映っているのかとおもしろかった。

高野山についた。 

ここに来たのは数年前に四国八十八箇所巡礼をして以来で、かつて「お遍路さん」だった私にとって、高野山は特別なのである。

聖域に入るために私はかつてお遍路で着ていた白装束に着替えた。

奥の院をしとしとと降る雨の中、ゆっくりと歩いた。

奥の院の突き当たったところにある灯籠堂では、豪華絢爛の袈裟を着た太った坊主たちが、空海の御影の周りをぐるぐると回りながらお経と真言を唱えている。多くの観客がそれを見届けていた。

坊主たちは皆頭がテカテカに脂ぎって丸々と太っていたが、信者の布施で良いものばかり食ってるに違いない。

本当に修行をしているのかと、在家の私は思ってしまう。

弟子である彼らを見て、師・空海はどう思われるだろうか。

法要の途中で抜けて、護摩木に病気で伏せっている叔父の名前を書いて護摩祈願の受付を済まし、灯籠堂の奥の空海の御廟の前で祈りを捧げた。

御廟の前では多くの人々が同様に祈りを捧げていた。

この奥に空海が眠っていると思うと急に有難い気持ちが込み上げてくる。

2度もお遍路をした私にとって、「お大師様(空海)」はやはり特別なのである。

私も他の参拝客に混じって線香を焚き、念珠をくりながら御宝号(南無大師遍照金剛)を何百ぺんも唱え続けた。

意識は容易に自然と深い深い変性意識状態へと入っていく。

ここ御廟は明らかに他の場所とはエネルギーが違うのを感じた。

 この数メートル先の地下で空海は瞑想に入っているといわれている。 

弘法大師空海は、56億年先の弥勒菩薩が下生するまでの間、私たち衆生を救うためにここで永遠の瞑想に入ったと言われている。

私達の一般の常識ではまずそんなことは有り得ないだろうと思う。

だがそのことが事実かどうかはどうでも良いのだ。

ただ、それを少しでも信じるものにとってはここはまさしく神聖で信仰の場そのものなのであった。

御宝号を唱え続けている間はただ有り難さがこみ上げてくるだけでずっと祈りを捧げていたい気持ちであった。

あまりに変性意識状態が深かったので、このままだと本当に空海とまみえることができるのではないかと思い続けたかったが、待っているオリバーが気になった。

一通り祈りを捧げた後は、オリバーと二人で般若心経を読んで御宝号を唱えた。 

隣では、一万円札をお賽銭としていれているおばあちゃんがいて、この人は幸せな人だなと思った。

ちなみにオリバーは以前この奥の院を訪れた時、彼の死んだ親戚や知り合いと出会ったと言っていたが、あながち否定はできない。

それほど不思議な空間なのである。


その後、私たちは奥の院を出た。


出口のところにある食堂で和風ラーメンを食い、紀伊田辺までのルートや時間をしらべたりした。

高野山から紀伊田辺まではかなりアクセスが悪く、時間もかなりかかることがわかった。

一旦大阪まで出るか、橋本まで戻らなければならない。

つまり紀伊田辺までは一旦遠ざかるということになる。

私たちはすぐに高野山を出た。

ケーブルカーを降り、極楽橋から橋本〜和歌山線和歌山駅〜紀勢本線の御坊〜紀勢本線紀伊田辺駅と何度も乗り換えて向かった。

紀伊田辺に着いたのは18時頃だった。

田辺に来て知ったことだが、ここは南方熊楠、植芝盛平、弁慶、山本玄峰老師などの出身地らしい

私達がチェックインした宿はゲストハウスTakaoというところで、ポーランド人の男がフロントをしていた。

私達は田辺の町を彷徨き、玉子丼と蕎麦とビールで夕食を済ませた。

それからスーパーで食い物を買い込み、3日分の食料を蓄えた。

オリバーは滝尻王子まで歩くことに躊躇しているようだ。

アスファルトの道ばかり歩いても面白くないんじゃないか?という。

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