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ホワイトシチューは食べ物なのに飲んでしまう理由 2/22(木)

今日の晩ごはんはホワイトシチューだった。

私はホワイトシチューが好きだ。
食事なのに甘い。お菓子じゃないのに甘い。甘いのにおかずになる。
不思議な食べ物なのだ。

クリームシチューを深めの平皿によそう。
具がゴロゴロしていて美味しそうだ。

きちんとしたお店では、テーブルに置いたままのお皿の内から外へとスプーンで掬って飲むのがマナーかもしれないが、家なのでお皿を手に持ち、程よく口に近いところに位置させ、外から内へスプーンを入れ、その勢いのまま流れるように口に運ぶ。

うん美味しい。

また流れるように口に運ぶ。
美味しい美味しい。
わっしょいわっしょい。

あっと言う間に食べきってしまった。
ホワイトシチューはいつもこうだ。
普段はどちらかというと食事は遅いほうなのに、なぜかクリームシチューはあっという間になくなってしまう。

なぜかと書いたが、ちょっと考えてみたら理由が分かった。
咀嚼の必要がないからだ。

シチューの具はゴロゴロしているとはいえ煮込んであるので、ゴロゴロしているのは存在感だけで、食感はホロホロしている。
そんなに噛まなくてもすぐ口の中で形が無くなってしまう。

だからクリームシチューは食べ物なのに、飲み物みたいにごくごく飲んでしまうのだ。

昔に若槻千夏がマーボー豆腐は飲み物ですとか言ってて、おおん?と思っていたけれど、そういうことだったんだと何十年か越しに理解した。
(調べてみたら、言ってはなかった。ブログのタイトルだった)

ちなみに、じゃあビーフシチューはどうなんだ、と自分に問いかけたところ、鶏(クリームシチュー)と牛(ビーフシチュー)では格が違う、と即答だった。
全くもって同感だ。

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