「やらない」と「できない」は違う
山小屋で店番をしていたときのこと。
カラフルなウェアを着た、人懐こそうな少年が話しかけてきた。お父さんとふたりで来たそうだ。関西弁で話す子だった。
他愛もないおしゃべり中、私がふと「何年生?」と聞くと、少年はあっけらかんとした口調で言った。
「本当は3年やけど、2年のとき学校行かんかったから、もっかい2年生やってる」
えっ、小学校で進級しないことってあるんだ。
(あとで元小学校教諭のスタッフに聞いたら、「進級させないことはないですよ。本人や親御さんの希望だったんじゃないですか」と言っていた)。
「そうなんだ。なんで学校行かなかったの?」
私が尋ねると、少年は少し考えて、
「行かんかったんじゃなくて、行けんかった。自分でもなんでかわかんないけど、なんかしんどくて」
と言った。一言一句正確ではないけれど、そういう意味のことを関西弁で言ったのだ。
あぁ、そうだ。私もそうだったじゃないか。
私も中学で不登校になったが、学校に「行かなかった」のではなく「行けなかった」。
なのに、「なんで行かないの?」と言う大人の多いこと。言われるたび地団駄を踏みたい気持ちになっていたのに、大人になった私は、少年に同じことを言ってしまった。
その言葉をチョイスしてしまった自分の雑さに嘆息した。
◇
「やる/やらない」と「できる/できない」は別軸だ。
ためしに、「やる/やらない」を縦軸、「できる/できない」を横軸にしてマトリクス図を描いてみよう。
(夫に教えてもらいながらはじめて図を作ったよ!)
私は学校に行けなくなった頃、毎朝、登校を試みてはいた。「今日こそは頑張って学校に行こう」と制服を着ては、動悸と呼吸困難と嘔吐で登校できなかった。
図の右上「やるけどできない」だったのだ(あくまで私の話であり、ほかの不登校児のことは知らない。一人ひとり違うだろう)。
しかし、不登校を図の左下「できるけどやらない」のニュアンスで捉えられることはとても多い。
似ているようでまったく違うのに。
◇
「やる/やらない」と「できる/できない」を混同している人は多い。
以前、「会社員になりたくてなったけれど、体調を崩してどうしても続けられなかった」とエッセイに書いたことがある。
アルバイトやフリーランスという働きかたを積極的に選んだのではなく、他ができなかったから消去法でそうなっただけ、という内容だ。
これに対して、知らないおじさんが「誰もがそういう道を選んで成功するわけじゃないから、自分にあった職業を慎重に考えて選ばなければいけない」とコメントしていた(特定を避けるために文章は変えてある。実際はもっと支離滅裂な文章だった)。
……読解力ヤバすぎない?
仮に仕事が100種類あったとして、100種類すべて「できる」人は、その中から自分に合ったものを選べばいい。選び放題だ。
しかし、体質や能力は一人ひとり違うから、できることも人によって違う。100種類のうち、50種類できる人もいれば、1種類しかできない人もいるだろう。
1種類しかできない人は必然的に、その1種類を選ばざるを得なくなる。だって、他がないのだから。
そういう話をしているのに、「慎重に考えて選ぼう」ってなに。今は、選び放題の話はしてないんだよ。そもそも、進路を慎重に考えて選ぶのなんて当たり前だろ。私くらい選択肢の少ない人間だって、慎重に選んでるわ。
こういう人は、誰もが登校や就職を「できる」と思っているんだろうな。それをしていない人は、自分の意思で「やらない」んだと。
違うよ。やろうとチャレンジしても、「できない」人もいるんだよ。
そういう人に、出会ったことがないのかい?
◇
何かをしていない人に出会ったとき、その人の気持ちが図のどこにあるのかを意識するようにしている。
いつかあの少年に出会うことがあれば、もう不躾な言葉はかけない。あのときはごめんね。おばさんも成長しているよ。
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