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「昔はこうだったよね」と言う友達、言わない友達

私はそのときどきで変化していく。

大切にしている価値観、服や食べ物の好み、好きな遊び方、憧れる暮らし。それらがいっぺんにガラッと変わることはないけど、少しずつ変化していくのだ。

学生時代からの友達、由美と真奈とは、なかなか予定が合わなくて、卒業後は1年~2年に1回のペースでしか会っていない。

つまり、会うときはいつも1~2年ぶり。その間、私はさまざまな変化を遂げている。由美と真奈にとっては、「前回と言ってること違うじゃん!」と思うことも多いだろう。

だけど、ふたりともすぐに「昔の私」から「今の私」にチューニングを合わせてくる。

前はそのことを、「ふたりが優しいから、私の変化を肯定的に受け止めてくれるんだな」と思っていた。

だけど、先日会って気づいた。

友達の変化を受け止められるかどうかって、優しさというより、単純に適応力ではないだろうか?

由美も真奈も、柔軟で適応力が高いから、自分の中の「サキちゃん像」を素早くアップデートできるのだ。

だけど、そのアップデートが苦手な人は、いつまでも「お前、昔はこうだったよな」と昔の話をしてしまう。


ある友人のことを思い出していた。

その友人とは、10代の頃はわりと仲が良かった。20代はお互い引っ越したこともあってほとんど会うことはなかったけど、29歳のとき、たまたま友人の住む県に行くことになり、夫と3人で会った。

数年ぶりに再会した友人は、話しているうちにこんなことを言った。

「お前、昔はもっと尖ってて面白かったのに、なんか普通になっちゃってつまんないな」

たしかに、私は若い頃、かなりエキセントリックだった。承認欲求をこじらせたメンヘラで、人と違うことだけをアイデンティティとしていた。

だから、当時の私を知る人間からすれば、今の私は凡庸だろう。誰もが着ているようなふつうの服を好み、人間関係のトラブルを起こすこともなく、苛烈さを失った私。

けれど、なぜそれを「つまらなくなった」とジャッジされなきゃいけないんだ。私はてめえを楽しませるために存在してねーんだよ。

……と思ったが、そのときはスルーした。

その2年後に、また彼と会う機会があった。そのとき、友人はまたも「お前、昔はそうじゃなかったよな」と昔の話を始めた。

いやいやいや、2年前にも会ってるじゃん!

私が「昔のお前」じゃないことは、すでに2年前に知っているはずだ。なぜ2年前の時点で認識をアップデートしなかった?

その2年後に会ったときもまた「昔のお前は~」が始まったので、私はLINEをブロックした。

私はずっと、「私がおとなしくなったことに友人が不満を抱いている」と思っていた。

だけど、そうじゃないのかもしれない。友人は単純に、認識をアップデートすることが苦手なタイプだったのではないか。

懐古厨というネットスラングがある。なんでもかんでも「昔はよかった」と言い、現在を否定したがる人たちのことだ。そういえば、友人にも懐古厨のふしがある。

友人は、私がおとなしくなったことが気に入らなかったのではなく、私が変化すること自体が気に入らないんじゃないだろうか?

たとえ私がどんなふうに変化していたとしても、やっぱり「昔のお前は~」と言ったのかもしれない。


ランチして買い物してお茶して、私と由美と真奈は下北沢駅に戻った。

下北沢の駅は新しくなっている。ここで待ち合わせたとき、私たちは「ここって昔の北口?」「なんか慣れないね」と言い合った。

だけど、帰り際の私たちはもう誰も、駅が新しくなったことに言及しなかった。

慣れないと言いつつも、なんだかんだで私たちはすぐに適応している。

友達の変化に、すんなり適応できる人間でありたいと思った。

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