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悲しみと不謹慎さは両立しうる

2013年に山小屋で出会った年上の後輩スタッフは、宮城県の人だった。

仮にマイケルとしよう。日本人だけど、外国人名のあだ名だった(なぜか自らそのあだ名を名乗ってきた)。

マイケルは、東日本大震災で被災したそうだ。家は無事だったものの車が流され、友人を何人か亡くしたと言う。

彼は、「あれ以降、無駄な涙を流さなくなりましたね」と言っていた。

大きな悲しみを経験したことにより、ちょっとやそっとの悲しみでは泣けなくなる。

それは、ものすごく道理が通っている。

だからこそ、「道理が通り過ぎている」ように感じる。人間ってもうちょっと、道理の通らないバグみたいなものがあるんじゃないだろうか。私なら、どれだけ大きな悲しみを経験したとしても、ちょっとしたことでワンワン泣いてしまうと思う。

じゃあマイケルはというと、彼はたしかに泣いてこそいなかったけれど、些細なことで怒ったり悲しんだりしていた。仕事でミスを指摘したら逆ギレされたこともあったし、彼女の言動について相談を受けたこともあった(仕事中に)。

そういうものだよなあ、と思う。

被災という大きな体験は、彼の価値観や人間性に少なからず影響を与えただろう。震災前の彼を知らないけれど、話を聞く限り、震災がきっかけでより精神的にタフになったようだ。

かと言って、日常の中の小さなできごとに何も思わなくなる……なんてことはないのだ。ミスを指摘されればプライドが傷つくし、恋人の一挙一動に心が揺さぶられる。

いずれも震災に比べれば小さなことだけれど、じゃあ「震災に比べればこのくらいなんてことないや」なんて思考回路にはならない。

生きている限り、できごとの大小にかかわらず何かを思うのだから。

もうひとつ、マイケルから聞いた震災の話で印象に残っているものがある。

それは、

「友達亡くしてめちゃくちゃ悲しいけど、でも、どっかで震災っていう非日常にアドレナリン出てるところもあるんですよね。不謹慎だと思うけど、そういう人間がいるから復興が進むんですよ。町中みんなが泣いてたら、復興どころじゃないから」

というもの。

震災後、マイケルと友人たちはノリノリで作業をしたという(なんの作業かは聞かなかったけれど、おそらく瓦礫の撤去とかだろう)。

その感じはなんかわかるな、と思った。

私も、突発的なアクシデントが起こると、妙にテンションが上がることがある。同居していた祖母が急死したとき、私はいつもよりずっとテキパキしていた。各所に連絡したり、集まってきた親戚のためにおにぎりと豚汁を作ったり。火葬が済むまで妙に元気だったのを覚えている。

それってたぶん、正気を保つための機能なのだろう。悲しみに絡めとられないように、気分が上がる脳内物質が分泌されたのかもしれない。

悲しみと、非日常にテンションが上がる不謹慎さは両立しうるのだ。

それに、山小屋で働いていて実感したけれど、力仕事ってある程度ふざけたり、ノリノリでやったほうが早く片付く。神妙な面持ちで無言でやると、力が出ない。

マイケルとその仲間たちも、それを知っていたのではないだろうか。


災害が起こるたびにいわゆる「不謹慎狩り」が起こる。

その多くは、被災していない人間によるものだ。

そういうものを目にしたとき、被災し、復興に携わった身でありながら、自分自身のことを「不謹慎」と評していたマイケルを思い出す。

彼が不謹慎だったのかどうかはわからないけれど、もしそうだとして、それは心を守るために必要だったのだと思う。

彼は、これからも生きていくから。

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