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サントリー美術館『大名茶人 織田有楽斎』に行きました!

お詫びのぶちょう

※ごめんなさい。この展覧会は写真一切だめなので、展覧物の画像はサントリー美術館から引用致します。

美術館の皆様方
 現在他の美術館はほぼ写真可能なので、写真不可であっても『モネ展』のようにフォトスポットがあると有難いです。
 写真がないとレポートが出来ないのです。

フォトスポット少ないですよね

織田長益の活躍と逸話―“逃げた男”と呼んだのは誰か

 織田長益は、天文16年(1547)に織田信秀の十一男として生まれ、幼名を源吾(あるいは源吾郎)といいました。信長の13歳下の弟にあたります。史料上、明確に姿をみせるのは天正期頃に遡り、各種の重要な儀礼に参加するなど、織田家の有力な武将としての長益の姿が知られます。

国宝 短刀 無銘 貞宗(名物 寺沢貞宗) 一口 鎌倉時代末期~南北朝時代 14世紀 文化庁 【展示期間:2/28~3/24】
【出所】サントリー美術館『四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎』
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2024_1/display.html

 しかし天正10年(1582)、明智光秀が謀反を起こし、本能寺において織田信長が自刃すると、彼の命運も激変することになりました。本能寺の変の時、長益は織田信忠と共に誠仁親王がいる二条御所に移り、ここで敵襲を受けました。親王を逃走させると信忠は自害しましたが、

 長益は城から脱出し、一説には安土を経て岐阜へ向かったと伝えられます。
 仕えている主君が自害し長益は難を逃れたことから、風聞書などのいくつかには、長益に“逃げた男”というレッテルを貼り、悪し様に評するものもありますが、果たしてそうでしょうか。
 本章ではこの点に立脚し、武将・織田長益の実像を、歴史資料を通して見つめなおします。

第2章 有楽斎の交友関係

 本能寺の変の後、長益は豊臣秀吉に仕え、摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市内)に二千石の知行を与えられました。
 秀吉の没後は徳川家康との関わりを深くし、関ヶ原の戦いでは石田三成の軍勢と戦をまじえて戦功をあげ、本領を安堵されただけでなく大和国山辺郡(現在の奈良県山辺郡)に知行地を与えられました。
 その後、大坂城に入り淀殿の叔父として淀殿・秀頼母子を補佐しましたが、常に徳川方へ配慮し、冬の陣においては豊臣・徳川の間で和議を結ぶよう説得しました。

織田有楽斎坐像 一軀 江戸時代 17世紀 正伝永源院 【通期展示】
【出所】サントリー美術館『四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎』https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2024_1/display.html

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