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【エッセイ】棺桶に謝る人にモヤモヤする

エッセイをずっと書いてみたくて、でも『ありのままに何を書いても良い』という夏休みの自由研究くらい難しいエッセイの基本理念にかえって何を書いて良いのか分からずにいた。
心の底から湧き出る清水のような自然体の『私』のエッセンスを待っていたら、日々無常に日が暮れもう4月も半ば。
おいら意地でもエッセイするんだ、と痺れをきらし心を掘りおこしはじめたら表題のようなクセの強い偏った思想のテーマにたどり着いた。
こんな所で形にこだわっていても仕方がないのでトライ&エラーのつもりで良くも悪くも『ありのまま』そして、つれづれなるままに、日暮らし、パソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

出会いの数だけ別れがあるさという言葉のように、人生の中でお葬式に参列した経験は決して多くは無いが、だからと言って少なくも無い。大切な人がいればいるほど今後もゼロでは無いだろう。
故人との関係の深さや別れの唐突さによっても、式の様相は悲しみ一色に包まれるか、はたまたお疲れ様でしたの労いの空気が悲しみと同等に包み込むのか様々である。
粛々と進む式の中で各々が棺に横たわる故人と向き合う。静かに手を合わせたり、溢れる涙を抑えきれなかったり。
そして特に思い入れの深い人達は棺の中の故人に向かい、声を詰まらせながらも語りかける。
労い、感謝、謝罪。その言葉は様々だ。

私はそれらの中で『棺に向かい謝る』という光景を見るとモヤモヤする。
いや、お葬式だし冷静に考えると普通じゃん、いちいちこまけーよ。という意見はごもっともだ。
でも冷静に考えるからこそ、モヤモヤし『今、謝る意味』というものに囚われてしまう。
私は個人的に、故人に対して最期は『ありがとう』の趣旨の言葉を贈るのが理想的だと考える。
例え謝らないといけない、しこりが残っていたとしても最後はそれでもありがとうで包み込んで伝えたいと思う。
棺に向かって謝る人の背中を眺めながら、「本当に謝ろうと思えば生前に謝れただろうに」と考えしまい、もしかして「もはや生前に謝れなかったことを謝っているのだろうかと」負債者が借金を返済するも溜まった利子の消化にしかならないイメージを抱く。
モヤモヤを払拭するためにあえてもう少し掘り下げて考えてみた。
そして結論として、私の中で『ありがとう』と『ごめん』の位置付けの違いがあるからだということに気がついた。
私にとって『ありがとう』は官製はがき。そして『ごめん』は往復はがきなのだ。
ありがとうと言われると普通、人は「どういたしまして」と答える。余程あまのじゃくな場面でも無い限り「そのありがとうは要らないよ」とはならない。
ありがとうは『伝える』ことに意義があるということに気づく。確実に伝えることが出来たなら、どういたしましての有無は必須ではない。あれば素敵だが、無くてもいい。だから官製はがき。
そしてごめんと言われた時、人はどう返答するだろうか。「いいよ。許してあげる」かもしれないし「いや、それでも許すことはできないよ」かもしれない。
ありがとうは一択だった返答が、ごめんでは二択になる。だからごめんは『謝った相手の返事』に意義がある。だから往復はがき。
例え謝ったとしても、もしかしたら許してもらえないかもしれない。
なので棺に謝るという行為は、一方的に謝罪を官製はがきで送りつけているように映ってしまう。「やっぱり許さない」と返答される可能性に蓋をして
「謝ったんだし許してもらった」と都合よく勝手に補完し、自己完結しちゃう姿に何だかこっすいなぁと感じていたのだ。それがモヤモヤの原因だった。
これからもいつか参列することになるお葬式で棺に謝る人を見かけるとやはりモヤモヤしてしまうだろう。
そして自分は棺にありがとうと言える人間でありたいなと思いつつ、そもそもそんな日は遠い先の未来であり続けますようにと切に願う。


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