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【エッセイ】やる気やモチベーションにヤキモキする

『習うは一生』や『生涯学習』という言葉に心揺さぶられる魅力を感じるのは勉強嫌いでしてこなかったことへの反動だろうか。
学生という身分を終えた時「これで勉強という支配から卒業だ」と
大してしてこなかったくせに、尾崎豊をリフレインしながら勘違いをしてしまったあの頃の自分にどうにかして会いにゆきたい。
その為にタイムマシンでもこさえようと思ったら一生じゃたりないくらい勉強しないとだめなんだろうなと自ずと目は虚ろになる。
改めて、手放しで勉強が出来るって贅沢の極みだったんだなと痛感する。
大人になってから何かを勉強しようと思いたった時、それは再び国語や数学といったいわゆる『いい学校に進学するため』の教科は選ばない。
どちらかといえば、資格や自己啓発、リアルに直結した投資など『収入を増やす為』の分野を自然とチョイスするのではないだろうか。
前者も最終的にはいい企業に入って後者の理由を目指す為の勉強なわけで、いまさら進学もしないのに国語数学を選択するのは、意味を見いだせない。
と前置きが長くなってしまったが、何かを学びたいと私も先ずはとっつきやすい所からと自己啓発界隈から手をつけてみた。
そして、これまで当たり前のように認識していたパラダイムが崩れ去る事実に開いた口が塞がらない。
そのひとつが『やる気やモチベーション』についてだ。
勉強したいがやる気が出ない。モチベーションがなく勉強が続かない。
この組み合わせに心当たりしかなく何の違和感も抱かないのだが、どうやら違うらしい。
やる気は待っていても出ない。やる気を出すための方法はただひとつ。
やる気の『やる』の指し示すことをやる。それだけだ。
いや、その為のやる気はどうすれば?と思考が堂々巡りし始めるのだが
要するにやる気やモチベーションなんぞ存在しないのではないだろうか。
今までやる気やモチベーションは『行動への源動力』だと思っていたが
実際は『行動の副産物』だった。
ひとつの考え方に過ぎないが、私には腑に落ちた。
やる気やモチベーションといった数値化できない感情の起伏に行動を支配されているという事実は、改めて考えるとヤキモキする。脳が身体(行動)をコントロールしているという当たり前のことを
身体(行動)でもって脳をコントロールするという発想は新鮮だ。
別に信じているわけではないが、当たり前すぎて疑問すら抱かないことをぶち壊していくのは割りと大歓迎だ。
早速、脳が上司で身体を部下と見立てて、失敗してもいいから四の五の言わずに行動せよと部下に命ずる。
ペンを持て。テキストを開け。
しかし部下はピクリとも動かない。
「なんか、やる気出ないっすねぇ」
なかなかすぐにはうまくいかない。


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