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帝国主義と東アジア

中国分割と近代化運動

中国分割(19世紀末)

→日清戦争に敗れた中国は、列強から借款を行う。その際に担保として鉄道敷設権鉱山採掘権を奪われてしまう
租借
→他国の領土の一部を条約によって借りること。実質的な領土分割

◎国務長官ジョン=ヘイ
門戸開放宣言の発表
→門戸開放、機会均等、領土保全。アメリカはこのとき南北戦争やアメリカ=スペイン戦争をしており中国の領土分割に乗り遅れていた。

◎分割された領土と勢力圏

$$
\begin{array}{c|c|c|c}
国家&租借地&勢力圏&鉄道敷設権\\ \hline
ドイツ&膠州湾&山東省&\\ \hline
ロシア&遼東半島南部(旅順・大連)&満州・モンゴル&東清鉄道\\ \hline
イギリス&威海衛・九龍半島&長江流域&\\ \hline
フランス&広州湾&広東・広西・雲南省&\\ \hline
日本&遼東半島南部(旅順・大連)&福建省&南満州鉄道\\
\end{array}
$$

→ロシアの租借地は日露戦争時に日本へ移った

中国の近代化

変法運動
→中国の近代化運動の総称
光緒帝(位1875~1908)
康有為梁啓超ら官僚を登用し日本の明治維新を模範にした。これは立憲君主政をめざすもの。戊戌の変法とも呼ぶ。
戊戌の政変
西太后を中心とする保守派が改革を弾圧。結果として近代化が進まず。

西太后

中国・朝鮮を巡る日本とロシアの対立

中国の排外運動

仇教運動(19世紀後半〜)
→中国各地で起こった反キリスト教(≒ヨーロッパ)運動。列強の中国分割への反発。

義和団事件(1900〜1901)
義和団(宗教結社)
→「扶清滅洋」を掲げ活動。仇教運動の一つ。ドイツ人宣教師殺害事件などを引き起こす。
→ドイツの山東進出
●義和団の北京占領
→彼らを利用し列強排除を狙った清は西欧列強に宣戦布告。8カ国共同出兵により北京が占領される。
北京議定書
→巨額の賠償金の支払い。さらに北京駐兵権を認めることとなり実質的に軍事支配下に置かれる。

日本とロシアの対立

◎ロシアの中国東北進出
満洲占領
→中国東北地方に軍を留め、さらに増強し各地を占領。

◎日本の朝鮮進出
●朝鮮は国号を大韓帝国と改称
→独立国であることを示す。ロシアの南下を警戒。

日露戦争(1904〜1905)
→日本の攻撃により開戦。日本海海戦等でぶつかる。
 この時、ロシアのバルチック艦隊は敗北。加えてロシア国内では第一次ロシア革命が起きており、日本と戦える状態ではなくなっていった。日本も戦争の長期化で財政が圧迫されていたため、講和に入る。
ポーツマス条約
→セオドア=ローズヴェルト大統領の仲介。日本は韓国の指導・監督権を獲得し、ロシアの朝鮮進出を阻んだ。
遼東半島南部の租借権、南樺太を日本へ。
日本はロシアより南満州鉄道とその沿線の利権を獲得。

朝鮮の行く末と清末の改革

日本の朝鮮支配の完成

日韓協約(1904〜1907)
→日本は韓国の指導権を獲得していたので韓国に条約を突きつけた。
●第二次日韓協約
→韓国の保護国化(外交権を奪う)
初代統監:伊藤博文
反日義兵闘争の激化

ハーグ密使事件
→高宗が第二回万国平和会議に密使を派遣し日本の圧政を世界に訴えたが失敗。
●第三次日韓協約
→韓国は内政権を喪失

伊藤博文の暗殺
安重根がハルビン駅で伊藤博文を暗殺
韓国併合(1910)
朝鮮総督府の設置(軍事・行政の全ての統轄)
伊藤博文暗殺に対抗して設置した。

安重根

清末の改革(光諸新政)

光緒帝

→国内改造を試みる。
新軍の整備
→西洋式軍隊
科挙の廃止

◎憲法大綱の発布
→日本の明治憲法を模範。
◎国会開設公約

このような改革をしたが、結局は皇帝政治が前提であるため民衆の間で不信感が募った。

革命派の台頭
華僑...海外に渡航した中国人
●留学生...先進国に多く派遣された
興中会の結成
→指導者:孫文
中国同盟会の結成(1905)
→東京で結成される。各地で作られた革命派のグループをまとめ上げた。
総理:孫文 機関紙『民報
「民族の独立」「民権の伸長」「民生の安定」の三民主義を目標とした

孫文

辛亥革命(1911〜1912)

皇帝政治の終了

◎清が幹線鉄道国有化を宣言
→国有化した民営鉄道を担保に、外国からの借金を企図
●四川暴動
→鉄道国有令に反発。武力鎮圧しようと軍を送ったが、言うことを聞かなかった。
●武昌蜂起
→湖北新軍内の革命派が武装蜂起し独立を宣言。

中華民国建国 (1912)
臨時大総統 孫文
首都 : 南京
まだ中国北部に清が残っている。

◎清の滅亡
→清の袁世凱、 孫文との取引により清を滅ぼす。彼は清の軍事リーダーであったので中華民国を潰すよう指令を受けていたものの裏切った。
宣統帝(溥儀)の退位

袁世凱

辛亥革命後

◎袁世凱、 臨時大総統に就任(1912)
首都 : 南京→北京
しかし、国民のための政治を行わず独裁体制を敷いた。
国民党の結成
→中国同盟会が中心。袁世凱に対抗。

第二革命(1913)
袁世凱の独裁 vs 国民党
→袁世凱、 正式大総統に就任。国民党は解散させられる。

第三革命(1915)
袁世凱帝政 vs 国内の軍部、革命派
→列強も革命派に味方し、袁世凱の皇帝化は取り消された。
軍閥の割拠
→袁世凱の死後、北京政府の実権をめぐって争う。袁世凱が亡くなっても尚民衆に力がなかった。

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