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宗教改革


ドイツ宗教改革の始まり

カトリックの腐敗

◎神聖ローマ帝国(ドイツ)
●教皇レオ10世(位1513〜1521)
→サン=ピエトロ大聖堂の改築で教皇庁が財政難に、贖宥状の販売。ドイツはローマからお金を搾り取られる構造になってたので「ローマの牝牛」と呼ばれた。
説教師テッツェル
→「お金が箱の中に投げ入れられてチリンと音がするとともに魂が救われる」

マルティン・ルター(1483〜1546)
→ヴィッテンベルク大学の神学部教授。聖書主義を唱え、腐敗していたローマ教皇やカトリック聖職者の権威を否定。

ルター肖像画

信仰義認説
→「人は信仰によってのみ義とされる」行為より信仰を上位に位置付けた。
九十五箇条の論題(1517)
→ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に張り出した。心からの信仰のみが魂を救済すると主張し、これが宗教改革のスタートとなった。
●教皇レオ10世
→ルターを破門

国内の諸侯を巻き込む一大改革へ

皇帝カール5世(位1519〜1556)
→カトリックの教えを否定する奴は許さない

カール5世肖像画

ヴォルムス帝国議会(1521)
→皇帝はルターに自説の撤回を強要。ルターはこれを拒否したため皇帝はルターを帝国から追放。
ザクセン選帝侯フリードリヒ
→ルターを保護。ここでルターは『新約聖書』のドイツ語訳を完成させた。さらにグーテンベルクの発明した活版印刷で大量に聖書が発行され、教会の嘘が瞬く間にばれた。

ルター派の形成
→聖書を信仰上の唯一の権威、信仰義認説を重視。反教皇・皇帝の諸侯から支持を受ける。

◎ドイツ国内の混乱
ドイツ農民反乱(1524〜1525)
→農奴制、領主制、十分の一税の廃止などを要求。トマス・ミュンツァーが農民軍を指揮。宗教階級を農奴解放・共有社会などと結びつけた。
→ルターはそもそも諸侯の世話になっていたため、この反乱には否定的だった。以降、ルターの考えは農民には受け入れられにくくなり、諸侯には人気となった。

ドイツ宗教改革の帰結

ドイツを取り巻く国際情勢の変化

イタリア戦争(1494)
皇帝カール5世vs仏王フランソワ1世
フランスと神聖ローマ帝国はイタリア支配巡って戦争していた。
神聖ローマ皇帝軍がローマ侵入と略奪を行ったことでイタリア=ルネサンスが衰退しアルプス以北へ

◎オスマン帝国の圧迫
→スレイマン1世がハンガリーを併合(1526)。西をフランス、東をオスマン帝国に挟まれており、国内も混乱という大変な状況だった。

◎皇帝カール5世、ルター派を容認(1526)
→上記2つの問題を受け、ドイツ国内の団結を重視した。

◎オスマン帝国の第1次ウィーン包囲
→失敗に終わり神聖ローマ帝国は一旦安定

◎皇帝カール5世、ルター派を再禁止・弾圧(1529)
→ルター派は抗議文を提出。プロテスタントの形成へ。

宗教和議の締結

シュマルカルデン同盟の結成(1530)
→ルター派の諸侯・都市がカール5世の弾圧に対抗し、信仰の自由と防衛を目的に結成。
●シュマルカルデン戦争(1546〜1547)

アウクスブルクの宗教和議(1555)
●ルター派の公認
→諸侯に対して、カトリック派orルター派の選択権を認める。個人の信仰の自由やカルヴァン派の信仰は認められない

領邦教会制の確立
→ルター派諸侯は領内の教会に対する支配権を確立。従来はローマ教皇をトップとして教会も管理されていたが、その権限が領邦に移ったことが歴史的には重要。皇帝の力はさらに衰え、元々ばらばらだったドイツ国内のまとまりはさらになくなった。

スイス・イギリスの宗教改革

スイス宗教改革

フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484〜1531)
→チューリヒで宗教改革運動を実施(1523)
 ルターはミサのパンと葡萄酒をキリストの血と肉であることを認めた(この点ではカトリック教会と同じだった)のに対して、ツヴィングリはそれは形式的なものにすぎないとして、象徴としてのみ認めようとした(ルターよりも改革を徹底しようとした)。この意見の相違からルターの協力を得られなかった。

ツヴィングリ肖像画

●カトリック諸侯との戦いで戦死(1531)

ジャン・カルヴァン(1509~1564)
●『キリスト教綱要
予定説
→神の意志の絶対性、人間の行為の無意味さを強調。魂の救済は人間の意志や善行とは無関係で、すでに神によって決められているとする。
天職に励むことで救済を確信できるとし、キリスト教で初めて蓄財を承認
長老主義
→牧師と信徒の代表者(長老)で教会を運営。ローマ教皇からの独立を意味し、民営化のようなイメージを持つと良い。
●ジュネーヴで神権政治(政教一致体制)を実施。

カルヴァン肖像画

◎カルヴァン派の呼称
ピューリタン(イングランド)
●プレスピテリアン(スコットランド)
●ゴイセン(ネーデルランド)
ユグノー(フランス)

イギリス宗教改革

ヘンリ8世(位1509~1547)
→王妃カザリンとの離婚問題で教皇と対立。カトリックを辞める
国王至上法(首長法)の発布(1534)
イギリス国教会の創設「英王は国教会の唯一最高の首長」
修道院を解散し没落した土地を新興市民に安く売り渡す。

エドワード6世(位1547~1553)
一般祈禱書の制定(1549)
→国教会の教義・制度を整備

メアリ1世(位1553~1558)
●スペイン皇太子フェリペと結婚
→カトリックを強制し新教徒を弾圧した

エリザベス1世(位1558~1603)
統一法の制定(1559)
イギリス国教会の確立

対抗宗教改革と宗教戦争

対抗宗教改革

→宗教改革に対抗する形でカトリック側が行った
イエズス会(ジェズイット教団)
イグナティウス=ロヨラ
フランシスコ=ザビエル
→カトリックの世界伝達、ヨーロッパの再カトリック化が目的。日本にも来た。

トリエント公会議(1545〜1563)
→教皇至上権・カトリック教義の再確認
禁書目録の制定、宗教裁判、魔女狩りの横行

オランダ独立戦争(1568〜1609)

→スペイン王フェリペ2世の時代、オランダに対し重税&カトリック信仰強制

●南部10州
→カトリック教徒が多い
●北部7州
ゴイセンが多い

◎南部10州の降伏(1579)

◎北部7州、ユトレヒト同盟結成
中心:ホラント州
指導者:オラニエ公ウィレム

◎独立宣言(1581)
ネーデルランド連邦共和国成立

休戦条約(1609)
→スペイン、オランダの独立を事実上承認

フランス・ドイツの宗教改革

フランス宗教改革

ユグノー戦争(1562〜1598)
●国王シャルル9世・母后カトリーヌ=ド=メディシス
→フランスの宗教改革は新旧両派の対立に、有力貴族の王権をめぐる政治論争が絡んでいる

サンバルテルミの虐殺(1572)
→王妹と新教徒のアンリの婚儀をパリで開催。パリに集まったユグノーを虐殺。

アンリ4世の即位(1598)
→ブルボン家のアンリは捕らえられて宮中に幽閉されたが、1576年に脱出し、さらにしばらく新教徒を率いて旧教側の国王アンリ3世、ギーズ公アンリとの「三アンリの戦い」を続けた。ところがアンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が途絶えたことによって、1589年、アンリ4世として即位しブルボン朝を開いた。アンリ4世は、1593年にカトリックに改宗したうえで翌年パリに入城。

ナントの王令(1598)
→新教徒へ条件付き信仰の自由を保障。旧教徒とほぼ同様の権利を付与。

ドイツ宗教改革

三十年戦争(1618〜1648)
ベーメン反乱(1618)
→新教徒の多い地域に対し、ハプスブルグ家が旧教政策を実施。
 元々アウクスブルクの宗教和議(1555)以降、皇帝は新教徒に対して寛容な統治を行っていたが、ベーメン王となったハプスブルク家のフェルディナントは、イエズス会修道士の教育を受け熱心なカトリック信者であったため、ベーメンに対するカトリックの強制を強化し、プロテスタント弾圧を開始。

●デンマークの参戦(1625)
→デンマーク王クリスチャン4世、イギリスとオランダの支援を受けるも傭兵隊長のヴァレンシュタインに敗北。

●スウェーデンの参戦(1630)
→国王グスタフ=アドルフがヴァレンシュタインを破るが途中で戦死。

●フランスの参戦(1635)
→宰相リシュリュー、ハプスブルグ家打倒のため新教徒支援で参戦

ウェストファリア条約(1648)
→アウクスブルクの宗教和議の再確認。追加事項としてカルヴァン派が公認された。
●スイスとオランダの独立を国際的に承認
●フランスへアルザスを割譲。
●スウェーデンへバルト海南岸を割譲
●神聖ローマ帝国の有名無実化
→ドイツ国内の領邦にほぼ完全な主権を承認

◎三十年戦争は三つの対立軸を考慮すると良い。
①旧教徒と新教徒の対立
②神聖ローマと皇帝と領邦君主の対立
→ ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は同時にドイツ王として君臨していたが、実際には現地ドイツでの支配力は弱く、領邦の独立性が強かった。フェルディナント2世は、新教弾圧を通じて皇帝権力の強化を図った。
③ハプスブルグ家とブルボン家の対立
→旧教国フランスのブルボン家は本来なら新教勢力を支援するはずはないと考えられるが、現実的な国際政治家リシュリューは「建前より本音」をとり、ハプスブルク家を叩く好機ととらえ、直接出兵して神聖ローマ川を支援していたスペイン軍とドイツを戦場に戦った。これもヨーロッパの覇権を巡る対立であった。

◎戦争の実態
 三十年戦争は、ドイツの都市と農村を荒廃させ、それによってドイツの人口は1600万から約3分の1が減少して1000万となったと言われる。当時の軍隊は国民軍ではなく、新教側も旧教側も傭兵に依存していたため、戦いは決着がつかず(勝敗が決まり、戦争が終われば傭兵は失業してしまうので)、略奪行為が横行した。その戦争の惨禍は、文学では自ら体験したことを書いたグリュンメルスハウゼンの『阿呆物語』、絵画ではジャック=カロの『戦争の悲惨』などが伝えている。また、ドイツの文学者シラーは『三十年戦争史』を著している。三十年戦争のさなかの1625年に、オランダのグロティウスは『戦争と平和の法』を著し、自然法の思想に基づいた戦争の解決を説き、当時大きな反響を呼んだ。グスタフ=アドルフも戦陣でこの本を読んだという。

●三十年戦争の歴史的意義
 三十年戦争は、ドイツ領邦間の宗教戦争から始まったが、ヨーロッパの各国が介入することによって国際的な戦争となり、その結果、封建領主層は没落し、ドイツには神聖ローマ帝国という中世国家が解体され、プロイセンとオーストリアという主権国家が形成されることとなった。同時に、15世紀末に始まったヨーロッパの主権国家体制が確立したと言える。ウェストファリア条約は、主権国家間の条約という意味で最初の国際条約であった。

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