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日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_1 稲作のはじまり

プラントオパールとは、植物の葉の細胞に溜まったケイ酸(SiO2)の塊(ケイ酸体)が、遺跡の土壌中から見つかる一種の微化石です。その形を調べることで何という植物かや、品種などがわかるのです。

約6400年前の縄文前期の遺跡からイネのプラントオパールが出土しています。

また、縄文後期の土器中からもイネのプラントオパールが見つかっており、縄文時代にイネの栽培があった事は確かなようです。

ただ、これらはイネの中でも焼畑による陸稲栽培であったようで、南からの海の道、経路でやって来た熱帯ジャポニカ米であるようです。

約3000年前、大陸から水田稲作が持ち込まれます。今までは「弥生時代の始まりです」となっていたところです。『日本書紀』に豊蘆原干百秋瑞穂国(トヨアシハラノチイホアキノミズホノクニ)という記述があるため、「日本は弥生時代に水田稲作が一気に普及し、水田を中心とした農業社会が今日まで続き、米を主食として育った日本人が、その島国という閉鎖性の中で、均質で斉一的な言語と独特な統一的な文化を熟成して来た。」と思われて来ました。二昔ほど前までは…。

しかし、考古学の成果はもうこのようなイメージを一度リセットしなくてはならないところまで追い込んでいます。
BC950年頃、九州北部に水田稲作が伝わります。

この頃はまだクニという概念はなく、海でつながっていた朝鮮半島南部と九州北部との間を、海民で交易民であった縄文人は自由に往き来していました。

そして、渡来人も少人数ずつが長い時間をかけて何回もに渡りやって来ました。

渡来人と水田稲作を受け入れた縄文人との間でゆっくりと文化の共有が進みます。

少人数ずつやって来た渡来人の方が、縄文的な文化に染まって行ったことでしょう。

九州北部だけでも弥生文化といわれる水田、弥生式土器、金属器、環濠集落、全てが揃うまでに200年もかかっています。
水田稲作の広がりだけでも近畿地方までに400年、関東地方までに700年、東北地方は早くに日本海側を北上しますが、その後に揺り戻しがあり、水田稲作を放棄する所さえ現われます。元々、温暖性のイネは寒さに弱く、その上、短日植物であるため、北半球では夏の日長時間が北へ行けば行くほど長くなるため、花の開花が遅れます。

この時代のイネは晩生(オクテ)のものだったと思われ、花の時期が遅れて種子が熟す前に寒さがやって来て充分な稔りを得ることができなかったのでしょう。

東北のある遺跡では、その水田規模から、その集落の一年の収穫量は数斗ほどしかなかったであろうという報告が上がっています。

したがって弥生時代の2/3は縄文的な暮らしと、新しい生活を始めた人々との共存の時代であったことになります。


『人類史の「謎」を読み解く』分子古生物学者 更科功 監修 宝島社 TJ MOOK より

また、よく博物館や本などに縄文人と弥生人の顔が描かれていることがありますが、弥生人という表記には問題があり、本来は渡来系弥生時代人くらいにしておくべきでしょう。
今までも縄文系顔や渡来系顔があるのですから、弥生時代以降も、その地域や遺伝の出方による様々なグラデーションが存在するだけなのです。

ただ、弥生中期以降の大きな人口爆発と、一説には渡来人が持ち込んだ結核菌などの感染病に縄文人が耐性を持っていなかったことなどが、その遺伝割合を減らした要因であったかも知れません。また、水田稲作に伴う、小魚、貝、蚊などを介しての寄生虫感染(日本住血吸虫病など)も縄文系には耐性が小さかったことでしょう。

さて、遺跡から出土する木製具は、これまで水田跡があることから研究者も農具とばかり思い込んでいたようですが、復元して使ってみると水を含んだ土に対しては一発で壊れてしまい、今では6割が土木具で、農具は2割ほどではないかと考えられています。

本格的な灌漑土木は充分な鉄器が入って来るまでは難しかったのではないでしょうか。

そして肥料や農薬のないこの時代、2~3年も耕作すると田は地力を失い耕作放棄地となって行きます。

それでも、コメへの依存が一定割合ある弥生時代人は次々と田を広げて行きます。

こうして遺跡の上では、辺り一面水田となります。

遺跡からはジャポニカ(温帯も熱帯も)のプラントオパールは出てきますが、それ以上に他の植物の花粉が多く出土しています。

この時代の田園風景とはムラの周辺あたり一面、草ボウボウです。放棄田は雑草だらけ、稲作田も熱帯と温帯のジャポニカの混生はおろか、アワやヒエの雑穀が混ざりあい、一見、草ボウボウかな?というような景色が広がっていたのです。

当然、コメ中心の食文化とは言えず、縄文的な食文化+雑穀+コメ というような感じで、庶民の間で、このような食生活は中世頃まで続いています。さらに言えば農民にとっては近世まで、貧しい農民にとっては近代まで続いています。

しかし、庶民にとってはコメが充分でなかった弥生前期はある意味バランスの良い和食の元祖ができあがったコメ=食の良い時代であったかも知れません。

この後、弥生も中期以降になると気候の温暖化もあって、コメの収量の増加、人口爆発、環濠集落、クニの発生などが起こります。

組織的な戦闘による殺傷痕のある人骨が多数見つかります。環濠集落は、深い堀と逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる先を尖らせた杭を埋め込んだ、戦闘防御施設です。

何より『魏志倭人伝』の「倭国の大乱」が、記録として残されていて、この大乱は500年以上も続いていたのかも知れません。

水田稲作の東進を何波にもかけて阻んだ縄文系の人々がいます。それは、その狂気の沙汰を察知し、戦争とセットであった水田稲作を拒絶したのではないかという説もある位です。

縄文色の濃い、関東より北では、水田稲作を受け入れた後になっても環濠集落はありません。
いったい、なぜなのでしょうか?

弥生時代前期の一時だけ、コメは「食」だったと思いますが、それ以降、中世に至るまで、コメは「権力」そのものとなって行きます。

※ほとんど丸写しも多い参照資料
◎著者:佐藤洋一郎氏
『イネの歴史』京都大学学術出版社
『稲の日本史』角川ソフィア文庫
『米の日本史』中公新書
◎著者:奥田昌子氏
『日本人の病気と食の歴史』ベスト新書
◎著者:田家康氏
『気候で読む日本史』日経ビジネス人文庫
◎著者:鬼頭宏氏
『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫
◎著者:上念司氏
『経済で読み解く日本史』飛鳥新社
◎著者:井沢元彦氏
『中韓を滅ぼす儒教の呪縛』徳間文庫
『動乱の日本史(徳川システム崩壊の真実』角川文庫
◎著者:蒲地明弘氏
『「馬」が動かした日本史』文春新書
◎著者:山本博文氏ほか
『こんなに変わった歴史教科書』新潮文庫
◎著者:小泉武夫氏
『幻の料亭「百川」ものがたり』新潮文庫
◎著者:山と渓谷社編
『日本の山はすごい!』ヤマケイ新書
◎著者:森浩一氏
『日本の深層文化』ちくま新書
◎佐々木高明氏
『日本文化の多重構造』小学館
◎原田信男氏
『日本人はなにを食べてきたか』角川ソフィア文庫

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