修験道の光と影 私の光と影
修験道の効果と限界と
修験道、これにはとても大きな成果があった。
しかし、同時に私の経営者としての立場から言えば限界も露呈した。それは何故か?
修験道は非日常的な生活を送り、知恵や理性を越えた先の【世界】を体感できる。
自己を追い込み、グダグダとくだらぬ知恵を張り巡らす私を破壊するにはとてもいい方法だった。
実感を伴う充実した時を送れたと思う。
ただしそれは非日常的な時間をおくれたときだけだった。
日常の社長業を送っていると、私の限界を超越したあの感覚では次第にいられなくなってしまった。
修験道と日常のギャップ
心が洗われる素晴らしき感覚は日常業務ですり減らされ、どんどん私はくたびれていった。
あの感覚よ、あの充実感よ、もう一度!と願っても、その感覚体験も忘れていった。
修行が足りない私を呪った。
甘ちゃんの私をどうしようもなく情けなく思った。
最近岩波先生の本(※奇跡の脳覚醒)を読んだが、山奥で得た悟りと現実社会での悟りは全く別と書いてあった。
修験道が山奥で得た悟りだとしたら、生き馬の目を抜く社会の悟りはそれに適応していなければならないと。
何が起きてもどんな社会的経営的逆境が待ち受けようとしても、私はそれにぶれずに生き抜く覚悟と悟りを身につけよう。
このSPEEDが加速して行く世の中では、山奥で得た気づきなり悟りは時代遅れなんだと改めて教えられた。
修験道はすばらしい、しかし挫折した私
さて修験道は多くの教えをえることができたが、私が参加したセミナーでは、この現実社会を生き抜く術を得られなかったし、私も学ぼうとしていなかった。
そこで得られた理性を超えた感覚体験を現実社会にフィードバックをしなかったしできなかった。
理性で生きていることからの解放感がいつの間にか理性で縛られているだけの私になってしまった。
とはいえ毎日修験道を続ける訳にはいかない。
社員を養いより幸福度を増してやり、親父の業績を超えなければならない。
人間関係、売り上げと利益、私の心の乱れ、たくさんの難問に直面し続ける私の人生を呪い始めるに至り、修験道で得られた感覚を二度と取り戻せなくなってしまった。
恩師岩波先生のセミナーを受ける日まで。
瞑想も修験道も超越する感覚体験
そこで私は修験道も瞑想も超えた嘘のような感覚体験を味わうことになる。
そこから私は自信と覚悟を得ることができ、親父の呪縛から解き放たれることになる。
真の心の平穏を幼稚園児以来味わうことになる。
そして山奥で悟った現実社会には通用しない悟りではない、実際的な多くの悟り的気づきを獲得できることとなる。
修験道も岩波先生の技術も、体感実感が肝となる。
その違いは岩波先生の場合、短期間で、いや一瞬で修験道の体感の比ではない深い世界を味わえ、しかもそれを長く保てる。
そして、そこで色々な心のマイナスの処理やプラスの入れ込みができる。
そこが大きな違いだろう。
手っ取り早いし、仕事が忙しい人でも成果が上がる。
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