SNS徒然
Photo by kakowara サンクス。
全文無料公開、投げ銭サンクス。
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SNSもひとつの社会であり、人間関係である。
そもそも関係とは面倒なこと。感情もついて回りやすく、いわば便利などの方向に都合よく出来てない。
それが少し重いときは関わりかたを薄くしてみるとちょうどよくなることもある。
そんな社会の関係性において、リアルタイム同時一斉に交流をつぎつぎとクリアしていけるSNSは凄まじいツールなのである。これが手書きだったら、書ける人数が決まってしまう。
親友や旧友のことではなく、過去に離れてきた社会が再構築されたことはほとんど無いだろう。
ゆえ、一度離れたら「SNSは難しい、リアルで交流しよう」という思いは、分かるにしても、多忙な人々にとって、たぶん通用しづらそうである。
そのひとの時間をすべての関係一人一人にゆっくり取る文化になってないからだろう。知り合い程度の関係なら尚更。
ただ、思うには、どんな交流の仕方が良いのかと問われると、何が良いのかは、良くわからないものの、多くのひとと交流できることは、人類にとって、いろんな刺激があって良いことだと思われる。
ひとは、ひとに観られていることが、それなりに重要なこともあるのだろう。張り合い。励まし合い。いき。自らポジティブにSNSを使っていく。そういう楽しみになることを自分なら望む。
非SNS文化の人々にとっては、ひとに一人一人会うことが普通の交流文化である。会う会わないをスケジュールを眺め次々と決めていかねばならない。
しかしその時代つまり15年ほど前に、今すっかりSNS使用者の自分が戻って気楽かと問われると、ちょっと微妙な気もする。決定ストレスは増えそうだ。
むかしのリアルの、いわゆる場の空気での言論の支配的なやり取りなど常時したいかと問われると、特に興味ないと確信もする。
やはり、むかしへの思いは、良いところ懐かしいところにあるのであって、実際にはなかなか戻れることなど無いのと似ているのであろう。
当たり前だが、ひととリアルに会う時間こそ豊かな時間であることは、言うまでもない。わたしもそうしている。友達とのリッチなティータイム。
単にそれが年に数える程しかないのが今の現実になっているに過ぎない。わたしの場合、じきに、もっと増えるだろうけれども。
そのときSNSを終結させるかというと、やはり続ける。そもそもSNSを、SNSとしてというより、人間関係をすこし豊かにできる場として捉えている。
人間関係を豊かにしていけることは、人生にとって、一種の財産であることは間違いない。むかしのように呑んで云々なく、お茶を片手に話し合える。
ブログからの交流もいれたら、おそらく25歳ぐらいから18年ほど続けてきた。いろいろあった。思い出だ。
そんな思いが土台にあって、このエッセイを書いた。そういう思い出づくり、関係性を育てられる場に居られることは、有り難い。
ところで、SNS徒然または人間社会への思いは間違いなく十人十色だろう。人々にいろんな話を聞いてみたいものである。
✩
また逆に、このSNSという場を、ごみ溜め処分場とかどこぞの落書き程度のものとしか思わない人々の言葉には、その程度との理解しかしなくていいと思う。
ひとにゴミを見せつけてる毎日という交流スタイルって(笑)と自分なら思う。自由だがね。そういう感情になるときがある程度のことだと思いたい。
たとえば、あんまり「どうでもいい、しょうもない」等の、いわゆる成田節を一般のひとは使わないほうがいいとも思う。
等の徒然もあるにはあるが。
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