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魂磨かざれば光なし

今一度、ヤングケアラーについて、考えてみました。今年2024年度の国会で少子化対策の一環として「ヤングケアラー」が支援対象に法的に位置付けられるからです。近年、共働き家庭が増え、子供がを預ける場所も整備されていく中、収入面で余裕がなければ子供を預けずに家で待機する子供も増えることが想定されます。しかしながら、「ヤングケアラー」であった私は、人生をやってくるのはかなり厳しかったことを思っています。国の支援があったとしても、環境そのものがしっかりと変わっていかなければ、その子の将来は明るいのものではないと確信しています。

私は小売業を営む家に生まれ、下に妹が2人いました。ヤングケアラーになりがちな、第1子、かつ、共働き家庭で生まれ育ちました。一人っ子が多い今の時代とはここは違いますよね。小学校に入ると、自動的に鍵っ子になり、ゴム紐を付けた鍵を首からかけて登校していました。学校が終わると、1人で誰もいない家に帰り、店のある場所まで、毎日2kmほどの道のりを自転車で移動していました。その自転車も新車ではありません。その辺の放置自転車を少し直して与えられたものでした。

店に移動しなければならないのは、晩御飯の材料など、買い物をしなければならなかったからです。メニューまでは決める必要もありませんが、どんな食材を買うかは私に委ねられていました。予算内でスーパーに日常的に買い物に出掛けていました。小2までは1人で動けていたのですが、妹が小学生に上がる頃には、私が学童まで迎えに行き、連れて帰って、宿題などをさせていました。1人行動の時は、度々、カツアゲに遭ったりしながら、殴られたりしながら、少年は黙って移動していました。一言も親に報告したことはありません。体が小さかったので仕方ありませんでした。摂取カロリーより使用カロリーの方が多かったと思いますので、体が小さいまま大人になるんだろうなぁ。と、何となく思っていました。

危険を掻い潜りながら、私には炊事と洗濯が待っている。時間的にはすでに夕方5時〜6時。洗濯と掃除を済ませ、米を炊き、野菜を切ったり、肉を切ったり、小5にもなれば、魚を捌くこともお手のものになっていました。すでに我が家のおふくろの味は私の味付けになっていたのです。その時代の経験によって、私は料理が得意になっていました。後に飲食店のバイトばかりやるようになっていくのです。

中学生になると、朝は勝手に起きて、朝ごはんの支度をし、自分の弁当を作るようになりました。これは別のエピソードがあって、最初は母が作ってくれていたのだけど、母が起きてこない時があった。その日、私のお弁当は焦げた卵焼きとご飯だけだった。その日から、私は母に期待するのを止めたのです。自分のことは自分でやった方が早いし、確実なんです。この感覚は、その後、何十年に渡って意識の中に存在し続けるのです。中2にもなれば、炊事、洗濯、掃除、妹達の世話はもちろん、裁縫、アイロン掛けも自分で行うようになっていました。両親が寝てから寝る。誰よりも早く起きる。中学生の私の睡眠時間は短かったことを記憶しています。私は「手のかからない子」へと進化しました。

皆さんもそうだと思うのですが、なかなか自分の悩みというものをわかってもらえないし、言えないと思うのです。今だから、あの時、こんなふうに思っていたな。と思えるけれど、その時にどんなことを思っていたのかはわかりません。とにかく成績は坂道を転げ落ちていきます。クラブ活動にも行けない。しかし、先生や同級生からはサボっているように見られ、宿題もやってこない、約束も守れない。最悪な生徒のように映っていたと思います。

僕は家のことをやらなきゃいけない。

でないと家がまわらなくなる。

勉強や部活をやっている場合じゃないんだよ。


と思っていました。成績が落ちていくことで、誰かが気づいてくれる・・・という時代背景でもありませんでした。私は劣等生のレッテルを貼られることになるのです。常に先生にSOSを発信していたと思います。しかしながら、そのSOS信号に反応した先生は誰一人いませんでした。皆、父のことが怖かったからです。

ですから、私は学校の懇談会がとても嫌でした。特に保護者同伴の三者懇談。宿題をやってこない。部活に来ない。そんなことばかり指摘をされ、このままだと進学がなぁ〜。そんなこと言われなくてもわかってる。

でも、僕には時間がないんだよ。


ストレスが溜まりに溜まっていったのです。ある日、爆発しました。妹や下級生に暴力を振るうようになっていったのです。中学3年生の頃でした。もう限界でした。体は元気でしたが、心が壊れていました。誰も自分のことは理解してくれない。そりゃそうです。何も話していませんでしたから。いや、話してはいたんです。部活に行きたくないと話したこともあります。しかし、秒で反対されました。「何を言ってるのか。部活くらい行ってこい」。私は家を出ましたが、両親が仕事に出かけるのを見計らって帰宅したことを今でも覚えています。ちなみにその部活も自分で決めたわけではありません。父に勝手に決められたのです。「学校で一番厳しい部活に入れ」と。ヤングケアラーとは人権がない存在だと思います。そして、心の内を誰にも言えず、いじめを受けたわけでもないのに、この世から自分の存在を消したくなるのです。この感情はその後も度々襲ってきます。上手くいかなければ、自分が消えれば良いだけだ。

そうやって、何の能力も無い「無能」に成長した私は最下層の高校へ通うことになります。妹も中学生になると、自分たちである程度のことはできるようになりました。私は解放されたのです。ですが、高校生になって自由になっても私は何をすれば良いのでしょう。全くわかりませんでした。来る日も来る日もバイト三昧。めちゃくちゃ働きました。ルーティンは得意でしたから。今の時代は、もし、成績が急激に落ちるようなことがあれば「なぜか?」と先生が理由を探ってくれます。少子化の良い部分かもしれません。昔に比べれば先生の目が届きやすいということはあるでしょう。

ただ、今でも、私は何者か。私には一体何ができるのか。はっきりと答えを出すことはできません。ヤングケアラーは、将来こういう人間になりたい。とか、こういう仕事をやってみたい。とか、それすらも考えられないと思います。忙し過ぎて、情報が入ってきませんから。なぜ高校へ行くのか。なぜ大学へ行くのか。何も理解できませんでした。息抜きに聞いていた深夜ラジオ。流れてくる音楽に応援されているうちに、自分は音楽が好きなんじゃないか? 息抜きに見ていたテレビに笑わされ、自分はテレビの世界が好きなんじゃないか? アニメを見て、声優を目指した方が良いんじゃないか? 全て勘違いです。自分のことを人に話せない。人に聞くこともできない。何がわからないのかもわからない。だから、自分を客観的に判断してくれる人もいない。私は「無能」になるしかありませんでした。1つのことをやり抜く力は私にはありませんでした。私には、子供の頃に経験した子供らしいことは何一つ記憶がありません。「頑張る」ことはできても「努力」できない人間になってしまいました。

コロナ禍を経て、何の能力も無い人間なのだと気付かされ、私は親や先生を始めとした大人たちを恨めしく思うようになりました。2021年頃の話です。私は小中学生の頃に戻ってしまったように感じます。全ての大人に対して、「嘘吐き」だと思い、「信用できない」と思っています。何十年も経過した今でも、その心の中にある思いは変わることはありません。だから、私は「無能」なのです。「無能」になるには「無能」になる理由があると思っています。

今、人の親になってみて思うこと。

子供は子供らしいことをさせてください。

子供に大人しい行動を期待しないでください。

でなければ、その子は「無能」になります。


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