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挑戦のトリガー

驚いた、名前の書き方が分からない。小学生の頃からたぶん何千、何万回と書いた自分の名前なのに。緊張ではない、一瞬の躊躇。ペンを持つ指に汗が滲む。コンマ1秒ほどの奇妙な間を置いてから思い出す。ああ、そうだ、まずはウ冠からだった。その後はすらすらとペンが進む。上手でも下手でもない平凡な字。「選手統一契約書」に書かれた4文字は誇らしくもあり不安げでもあり、臆病さと自信がせめぎあってるように見えた。

春とも夏とも言えない、6月の末の梅雨の時期。今にも雨が降りそうな曇天の中、西所沢駅に着いたのは約束の1時間ほど前。

Googleによると目的地までは駅から徒歩15分ほどらしい。少し距離がある。代謝の良すぎる自分のシャツが汗ばむには十分な距離だなと思う。ゆっくり歩いていこうと、20分ほど前にカフェを出る。

目的地に着くとそこは他社との共同事務所で、特に看板などはなく、ここで合っているのだろうかと不安になる。ふと目をやった駐車場にチームロゴの入った車を見つけて胸をなでおろす。

約束の時間の3分前。ちょうど良いくらいだろう。

30分ほど話したかな。ある程度の情報は事前に聞いていたので心配事はない。

我ながら堂々たる立振る舞いだったと思う。署名の際に躊躇ったことも相手はきっと気づいていない。会社員の頃を思い出す。

2日か3日すると、チームから公式に契約情報がリリースされた。

思っていたよりも多くの人から御祝いの連絡をもらった。
(実はこのとき内心後ろめたいことがあって素直に喜びきれない部分もあったんだけど、話が逸れるからそれはまた別の機会に書けたらなと思う。後ろめたさは今もある。)

意外だったのはブースターの方々の反応。選手としての実力に期待して下さる反応が複数あった。近所のカフェでTwitterのTLを眺めながら、無意識に拳を握りしめた。

かくして僕はプロチームの一員としてこっそり世に出ることになった。
会社員を辞めて3か月後のことだった。

7月も下旬になると茹だるように暑い。今年の初練習は他チームと比べて、また、例年と比べても遅めのシーズンインだったらしい。理由はあとから色々聞いた。

練習は毎日必死だった。アップのダッシュでさえ負けたくなかった。

始まってみるとすぐに、自分はそもそもスタートラインにも立てていなかったことに気づく。

皆の言葉が分からない。

高校卒業以降バスケットについてまともに勉強をしてこなかったせいか、今どき小学生でも知っているようなバスケ用語ですら全然知らなかった。

そう、知らないということも知らなかった。
漂う素人桜木感(※31歳)sayヤマオー

テレビで売れない芸人さんが売れっ子に「オモロイ大学生か!」と突っ込まれている場面が何度も頭をよぎった。プロの世界に井の中の蛙が飛び込んできた状態。

正直に白状すると、この頃まだ「アイス」(※)の意味すら知らなかった。←激ヤバ。※DFの守り方の1つ。

さらに、フォーメーションが覚えられなかった。

どんなスポーツにも「こういう場合はこう動く」みたいな定石があって、選手にとってそれはコート上でのコンパスのようなものだったりする。だいたいどの辺りに動けば良いか教えてくれる。

フォーメーションもその定石ありきで説明されることが多い。

プロレベルの定石を知らずにフォーメーション通りに動こうとするのは、コンパス無しで富士の樹海に飛び込むようなものだった。

コート上で右往左往する姿はまるで体育の授業に参加する初心者。見慣れたはずのコートが巨大な迷宮に思えた。(やっぱり漂う蛙感。ゲコゲコ。ココドコ?

ある日、スマホで作戦盤アプリをダウンロードして、それでプレーの復習をしている様子をスクショしてTweetしたことがあった。

今だから言うと本当は投稿したくなかった。

あの頃はまだ試合もなかったから、僕はSNSの中だけで存在していて、肩書の薄っぺらさは露見するはずもなく、ただのオモシロ大学生であることは誰にもバレようがなかった。

肩書の独り歩きは自縄自縛だったんだけど、会社員を辞めた僕はもう組織の看板や肩書の傘に隠れて威張るのは嫌だった。

恥ずかしくてもできないことは出来ないと言いたかった。ただ真っすぐ進みたかった。真っすぐ、真っすぐ。(えっさ、ほいさっ

あの投稿に効果があったかは計るすべもないけど、少なくとも僕はもう昔のように看板や肩書の位置にあわせて進路を変えるようなことはしなかった。真っすぐな小さな一歩にこめた過去への訣別。

そういう意味ではSNSには助けられた。

ちなみに余談だけど、本当はいつもはノートに書いて復習していた。アプリにした方がポップな感じになって見る人も気軽に笑えるかな、と思ってそうした。(自己満)

僕のポジションはインサイド(※)だった。
※主にゴールに近い位置でプレーすることが多く、基本的にはビッグマンのポジション。

8月になると外国籍選手が合流した。背は僕より10cmくらい高い。

高校の頃から外国籍選手とは何度も闘ってきた。自信はある。練習中も手応えのある瞬間は何度もあった。

この頃、コーチは2人目だった。

初めての試合は8月、天皇杯予選。

1日目、2日目ともに勝ち、本選出場となった。2日目の相手は同じB3リーグのチーム。

僕は両日とも15分ほどのプレータイムをもらい、勝利に貢献したという実感もあった。

嬉しかった。そして、それ以上にホッとした。

B3リーグでの初試合は9月。埼玉県鴻巣での試合だった。自身のリーグ初得点。応援にきてくれた友人が飛び跳ねて喜んでくれたのが昨日のように思い出される。

そのあとコーチは3人目(臨時)、4人目へと変わっていった。

ここでちょっと話を進めるために、それ以降のことについて事実だけ端的に書きたい。

遠征には毎回連れて行ってもらえた。
なかなか思うような活躍はできなかった。
最初の頃よりプレータイムは少なくっていた。
試合に1秒も出ない日も増えていった。
ベンチでスコアシートを書くこともあった。
はっきり言えば、勝負が決まったあとで試合にでることが殆どになっていた。

果たしてこの挑戦は失敗だったんだろうか?

いや待て、そもそも挑戦の失敗ってなんなんだ。

目標に届かなかったとき?
負けたとき?
誰の役にも立てなかったとき?
世間から評価されなかったとき?

1年前の僕なら「諦めたとき」と答えただろうか。
(自分でも1年前の自分に問うてみたい。なぁ、どうなんだお前。)

今の僕は、挑戦には失敗も成功もないんじゃないかなと思ってる。
元も子もない答えですみません。でも本音。

8年勤めた会社を辞めようと思ったあの日、たぶん僕は「このままじゃ生きていけない」と思ったんだと思う。(当時はそんな風には思えてなかった) 

「自分らしく生きる」とか「熱く生きたい」とかそんな比喩的なカッコいい意味じゃなくて、もっとシンプルで物理的で動物的に、「このままじゃいつか働けなくなって給料がなくなって稼ぐスキルもなくて、死ぬ」と思ったんだと思う。

会社員として一生働くには僕はあまりにも夢見がちで、そのくせプライドが高く、無知で、そして不勉強だった。いつか会社にとって不要な人材になるか、自分が我慢できなくなるだろうということを肌で感じていた。

(※そんなやつが8年も頑張れたことの方が奇跡に近かった。これはひとえに前職で出会った先輩や同僚や後輩や取引先の皆さんのお陰でしかない。我ながら本当に多くの方に愛してもらったと思う。自慢の前職だ。)

どうせいつか飛び出すなら早い方が良い。生きていくために次に進む。

最近、僕にとっては挑戦自体は目的じゃないんだなって思う。だから成功も失敗もへったくれもない。あるのは「生きたい」っていうエグいくらい生々しい気持ちだけ。ただそれだけ。うん、そう思う。

挑戦してみて目標に届かなくても、負けても、諦めても、僕は明日も生きたいし、生きるために次の挑戦に進まないといけない。

生きたいって気持ちが挑戦のトリガー。

1年間、自分のキャッチフレーズはなんだろうってずっと考えてた。

挑戦者は全然しっくりこない。そんなたいそうなものではない。
放浪者(バガボンド)とか言えればカッコイイなとも思ったけど、そんなにしなやかな柔軟性もない。たぶん漂流者くらいがちょうど良いんだろうな。

自分の意志で放浪しているというより、社会とか常識とかルールとか流行りとかノリとかの大きなうねりに流されて漂って、漂着した先でとにかく頑張る。そんでまた流されて漂って頑張る。

2019年6月末、僕が漂着したのは日本のバスケットのプロリーグだった。

本当に恵まれた漂着先だった。

その島には新しい仲間との出会いがあって、支えてくれる友達、応援してくれるファンの方々、コーチ、スタッフがいて、そして何より、大好きなバスケットがあった。

今日は5月3日。カレンダーには「vs.豊田合成」の予定が残ってる。リーグ最終戦の予定だった日。

このコロナ禍ですべてが変わった。

楽しみが奪われてしまった人も多いだろうな。
楽しみがなんて言ってられないほど生活が逼迫している人もいるでしょう。
怒りの矛先が分からずストレスを溜めている人もきっと多い。
先行が分からず不安ですよね。

僕も同じです。

でも生きていくんです。生きてる限り必ず明日は来ます。信じれば救われます。目を閉じて祈りましょう。・・・僕の宗教入りませんか?w

~最後は笑いにかえるから今の子供に嫌がられるかな?~by浜田雅功さん。
作戦盤アプリをDLしたときの気持ちなう。

さてさて、ただいま私、絶賛漂流中です。
来期もバスケは続けられるのか。そもそもリーグは開催されるのか。会社の経営は大丈夫なのか(※絶対なんとかする)。全部わかんない。

わかるのは、明日も生きたい、だから頑張る。ただそれだけ。

最後になりますが、本来なら再来週あたりにブースター感謝祭があったはず。でも無くなった。

今日は、自分なりにこの1年を振り返り、一般論ではなくできるだけ自分ならではの想いを、自分らしい言葉で綴ることで、

実力的にも精神的にもプロチームの一員として未熟だった僕を温かく迎え入れ、そして応援して下さったブースターの皆様への感謝と御礼の言葉に代えさせていただきたいと思います。

1年間、誠にありがとうございました。このような時勢ではございますが、皆様くれぐれもご自愛くださいませ。

・・・いや、堅苦しいな!

皆さんほんとにありがとうございました!
またお会いできる日を楽しみにしてます!
あー、書くのつっかれたー!www

気に入ったら俺が生きてくためにサポートしてくれよな!ヨロシクぅぅう!

さ、明日も挑戦のトリガー引いていこ!
ばきゅん!^^

~漂流者Aより感謝を込めて~

※5月3日に書いたものの色々修正してたら投稿今日になっちゃった。

【あとがき】
不本意ながら、今年は大差での勝利という機会はあまりなかった。従って勝敗が決まってから出場するというのはつまり敗戦濃厚な状態であることが多かった。実は、そんなときは「コーチへのアピール」などはほぼ考えていなかった。いつも考えていたのはスポンサーさんや観客の皆さん、ボランティアの皆さんのこと。お金と時間を使って来場してくださった方々のことだった。(こんなことを書くのは媚だと言われても良いんだけど、断じてそうではない)。                       
 例えば、大差で負けている土曜日の試合の4Q残り5分。選手は翌日のことを考えてタフなプレーを避けることがある。戦略として当然なので文句はない。コーチとしても観客のことを想うからこそ、そのような状態でも僕みたいな控え選手に交代させることはできなかったんだろうと思う。でも、そんなときはやっぱり「俺を出してくれ」と強く思った。何かは変えるから、と。
1回だけだけど、残り3分くらいからの出場で形勢が変わったことがあった。会場が「いけるかも」というムードになったのがはっきり分かった。まぁ、結局負けちゃったから誰も笑顔にはできなかったんだけども。

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